2006.09.26 Tuesday
▼ 伊達政宗とその子孫
[ 日本史 ]
久しぶりの日本史カテゴリーをアップ!
今、スカパーで独眼竜政宗を見ているので、政宗とその子孫を調べてた。 いやいや、仙台七夕の由来もあったのには初めて知った!! あと・・・ 第3代藩主が政宗嫡孫・光宗が健在で継いでいたら伊達氏の歴史も多少 変化していたでしょうね。 ******************************************************************* 伊達 政宗(だて まさむね) 永禄10年8月3日(1567年9月15日) - 寛永13年5月24 日(1636年6月27日) 戦国時代の奥州の戦国大名で仙台藩初代藩主。伊達氏第16代当主・輝宗と最上義守の 娘(最上義光の妹)・義姫の長男として幼名は梵天丸。 字は藤次郎。諡号は貞山。幼少時に患った疱瘡(天然痘)の後遺症により右目を失明、 また勇猛で知られたため、後に独眼竜との異名がついた。 「政宗」という名前は、伊達家中興の祖と言われる室町時代の九代当主の政宗 (大膳大夫)にあやかったもの。 1584年(天正12)に19歳で家督を相続する。 **伊達 政宗(だて まさむね) 文和2年/正平8年(1353年) - 応永12年(1405年) 室町時代の武将である。父は伊達宗遠。 伊達家の九代当主。妻は室町幕府将軍足利義満の生母紀良子の妹。1377年に家督相 続。1400(応永7)年に鎌倉公方足利満貞が伊達氏に対して領土割譲を求めてきた事 を拒み対立する。 1413(応永20)にも関東公方足利持氏と戦い、応永の乱においても鎌倉を牽制して いる。伊達氏中興の祖と言われる。** 少年期 出羽国米沢(山形県米沢市)、米沢城に生まれる。元亀2年(1571年)、疱瘡(天然 痘)に罹り右目を失明する。失明後、母親の義姫から姿が醜いとされ弟の伊達小次 郎に愛情を注がれることになる。元亀3年(1572年)、臨済宗の虎哉宗乙(こさい そういつ)禅師による教育が始められ、仏教や漢学を学ぶ。天正3年(1575年)片倉 景綱(小十郎)が側近となる。 青年期 1577年(天正5)に元服、1579年(天正7)には仙道の大名で三春城主田村清顕の 娘愛姫(めごひめ)を正室とする。1581年(天正9年)、隣接する相馬氏との領地 争いに15歳で初陣し、勝利を収める。 1584年(天正12)に19歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。1585年(天正13)に父の輝宗が二本松城主の畠山義継に 拉致され謀殺される。畠山氏の二本松城を包囲し、畠山氏や佐竹氏など反伊達連合 軍と安達郡人取橋で戦う。政宗は伊達氏の領土拡張政策を行い、1588年(天正16)に 郡山合戦、1589年(天正17)には会津の蘆名義広・佐竹氏の連合軍を摺上原の戦い (磐梯山麓)で破り、奥州南部をほぼ制覇する。 豊臣政権期 この頃中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承しており、1590年(天正18)の 秀吉の奥州仕置では政宗は小田原へ参陣して秀吉に臣従を誓い、本領を安堵される。 参陣前には自身の身を転覆させようとしている母親を止めるために弟の伊達小次郎に 対し切腹を命じた。翌1591年には蒲生氏郷とともに大崎・葛西一揆を平定し、玉造郡 岩出山城に58万石を与えられ、後に加増されて62万石となる。1592年(文禄2) 秀吉の朝鮮出兵にも従軍して朝鮮半島へ渡る。また、普請事業なども行う。豊臣政権 では五大老である徳川家康に接近し、1599年には娘の五十八(五郎八)姫(いろは ひめ)を家康の6男、松平忠輝と婚約させる。 朝鮮出兵時に政宗があつらえさせた戦装束は大変に華美なもので、出兵の道中にお いて盛んに巷間の噂となり、これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達 者だてもの)」と呼ぶようになった、と伝えられる。 徳川政権期 秀吉の死後の1600年(慶長5)に家康が会津の上杉景勝に謀反容疑をかけ、討伐 を行うと従軍して白石城を攻略し、南部領国での一揆扇動を行っている。家康の留守 中に五奉行の石田三成らが家康に対して挙兵し、関が原の戦いになると、家康ら東軍 に属する。1601年には仙台城、城下町・仙台の建設をはじめ、居城を移す。 1614年(慶長19)の大坂の役でも戦う。また、家臣の支倉常長らの慶長遣欧使節団を メキシコからイスパニア、ローマにまで派遣して独自に海外貿易を試みている。 2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕え、寛永13年(1636年)5月江戸で死亡。 享年70。死の時まで仙台藩主の座にあった。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道 噴門癌)と推定されている。死後作られた木像や画には両目が入れられている。 辞世の句は、「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く」 法名:瑞巌寺殿貞山禅利大居士(尊称:貞山公) 墓所は仙台市青葉区霊屋下の瑞鳳殿(ずいほうでん)で、1974年(昭和49)には発掘 が行われて遺骨や副葬品の調査が行われた。調査の結果、政宗の身長は159.4cm、 血液型はB型(BO型)であったと推定された。 正室愛姫と、少なくとも七人の側室がおり、先述の五郎八姫など十一男四女の父 となった。また外国人女性の側室もいたというが、これは山岡荘八の創作であり 史実ではない。愛姫との間にもうけた次男忠宗を後継者とし、側室飯坂氏(通称・ 猫御前)との間に生まれた長男秀宗には宇和島10万石の領地を与えて分家させている。 **************************************************************************** 伊達 忠宗(だて ただむね) 1600年1月23日(慶長4年12月8日) - 1658年8月10日(万治元年7月12日) 伊達政宗の次男。正室は池田輝政の娘ほか側室。子に伊達綱宗ほか。仙台藩の第二代 藩主。虎菊丸。 生母が政宗の正室・愛姫(陽徳院、田村清顕の娘)だったため、庶長子であった兄・ 秀宗を差し置いて本家の後継者と定められた。1636年(寛永13年)、父・政宗の死去 に伴い、38歳で家督を相続する。 忠宗は徳川氏から妻を迎えて幕府との関係を強めると共に、仙台藩の地位と基盤固 めに務めて大いに功績を残したため、『守成の名君』と評された。1658年に死去、 享年60。 法名:大慈院殿義山崇仁大居士 墓所:宮城県仙台市青葉区霊屋下の伊達家墓所である感仙殿 **************************************************************************** 伊達 綱宗(だて つなむね) 1640年9月23日(寛永17年8月8日) - 1711年7月19日(正徳元年6月4日) 仙台藩第3代藩主で、伊達氏第19代当主。父は第2代藩主・伊達忠宗(綱宗は忠宗の 六男)。母は後西天皇の母・逢春門院の妹・貝姫。 幼名は巳之介。母が天皇の母の妹に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係に なる。1658年、父・忠宗の死により家督を継いで第3代藩主に就任する。官位は従四 位下。左近衛権少将。陸奥守。美作守。 しかし綱宗自身が若年で暗愚だったため、酒色に溺れて藩政を顧みなかったこと、 さらには叔父に当たる一関藩主・伊達宗勝(伊達政宗の十男で、忠宗の弟)の政治干 渉、そして家臣団の対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされ て幕命により1660年、21歳の若さで隠居させられた。家督は綱宗の2歳の長男・ 伊達綱村(亀千代丸)が継いだ。 綱宗が酒色に溺れ、わずか2歳の長男・綱村が藩主となったことは、後の伊達騒動 発端の遠因になったのである **************************************************************************** 伊達 綱村(だて つなむら) 1659年4月29日(万治2年3月8日) - 1719年8月5日(享保4年6月20日) 仙台藩の第4代藩主で、伊達氏の第20代当主。第3代藩主・伊達綱宗の長男。 幼名は亀千代丸。総次郎。初名は綱基。1660年、父・綱宗が酒色に溺れて藩政を 顧みなかったことなどから、幕命によって隠居させられたため、わずか2歳で家督を 継承し、第4代藩主に就任した。官位は従四位上、左近衛権中将、陸奥守。 しかし2歳で藩政を取り仕切ることは不可能であるため、綱宗の叔父に当たる伊達宗 勝(一関藩主)や、自身の叔父に当たる田村宗良(岩沼藩主)などが後見人となった。 しかし、家中では先代・綱宗の時代から続く家臣団の対立や大叔父・宗勝の専横など が続き、伊達氏の家中は混乱が続いた。しかも1666年には、綱村自身が何者かの手 (宗勝が首謀者と言われている)によって毒殺されかけるほどであった。 このような混乱続きの中での1671年、伊達騒動(寛文事件)が勃発し、伊達氏は 改易の危機に立たされたが、綱村自身が若年であったことから幕府の裁定ではお咎め なしとされ、宗勝ら関係者が処罰されることとなった。こうして、仙台藩は改易の 危機から免れたのである。 その後、綱村は自ら政務を執り始める。まず、防風林を設け、運河を開発するなどの 治績で大きな成果を収めた。また、儒学を学び、多数の学者を招聘して藩史の編纂に 尽力した。さらに仏教に帰依して寺院の建立、神社の造営に尽力し、「仙台藩中興の名 君」と讃えられた。しかし、寺院や神社の造営など、様々な改革を行なったことが かえって藩財政を逼迫させることとなり、これを解決しようと1683年に藩札の発行を 行なったが、かえって物価の高騰を招き、仙台藩の財政はさらに悪化の一途をたどっ た。 このため1703年、伊達一族から強要されて、隠居を余儀なくされた。 長男は早世していたため、家督は養嗣子で第2代藩主・伊達忠宗の八男・伊達宗房の 長男である伊達吉村が継いだ。 ちなみに、平泉にある源義経ゆかりの高館・義経堂は天和三年(1683年)、綱村に よって建立された。 綱村は1719年、61歳で死去した。仙台藩の歴代藩主の中では、藩祖の伊達政宗を 例外とすれば、名君の一人と言えるであろう。1924年、従三位を追贈されている。 **************************************************************************** 伊達 吉村(だて よしむら) 1680年7月23日(延宝8年6月28日) - 1752年2月8日(宝暦元年12月24日) 仙台藩の第5代藩主で、伊達氏の第21代当主。父は第2代藩主・伊達忠宗の八男・ 伊達宗房(吉村は宗房の長男)。母は片倉景長の娘。 第4代藩主・伊達綱村の長男・扇千代丸が早世したために養嗣子となり、1703年に 綱村が伊達一族の強要で隠居させられた後を受けて、家督を継いだ。官位は従四位上、 左近衛権中将、陸奥守。先代の綱村が行なった改革により、この頃になると仙台藩の 財政は著しく逼迫していた。このため、吉村は財政再建のために藩政改革を行なう。 まず、1727年に幕府の許可を得て「寛永通宝」を石巻で鋳銭し、それを領内で流通 させることで利潤を得た。また、買米仕法を再編強化し、農民から余剰米を強制的に 供出させ、それを江戸に廻漕して利益を増大させ、藩財政を潤わせた。このため、18 世紀初めから中頃にかけての江戸市中に出回った米のほとんどが、仙台藩の産物で あったと言われているほどである。 また、吉村自身が書、絵画、和歌などの文学面に優れており、吉村は藩内に学問所を 開いて学芸を奨励した。1743年、四男の伊達宗村に家督を譲って隠居し、1751年に 72歳で死去した。 吉村は仙台藩の財政を再建したことから、綱村と並んで「中興の名君」と呼ばれて いる。1928年、従三位を追贈された。また、青根温泉には吉村以降の入浴日記が残 されている(現在は青根温泉、湯元不亡閣の館内に展示)。 **************************************************************************** 伊達 宗村(だて むねむら) 1718年6月25日(享保3年5月27日) - 1756年6月21日(宝暦6年5月24日) 仙台藩の第6代藩主で、伊達氏の第22代当主。第5代藩主・ 伊達吉村の四男。 第8代将軍・徳川吉宗から偏諱を受けて宗村と名乗った。1743年、父・吉村から 家督を譲られ、第6代藩主となった。官位は従四位上、左近衛権中将、陸奥守。 父と同じく学面に優れ、多くの書を残している。また、馬術、槍術、剣術、軍術、 砲術にも精通していた智勇兼備の人物であった。 宗村が智謀に優れていたことを現す逸話がある。1747年8月15日、江戸城本丸 大広間において、熊本藩第5代藩主・細川宗孝が旗本の板倉勝該に背後から斬りつけ られ殺害された。上野国安中藩主・板倉勝清と間違えられたのが原因であるが、江戸 城での刃傷沙汰は例え間違いであってもお家断絶となる。そのとき、その場にたまた ま居合わせた伊達宗村は気転を利かせ、「宗孝殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで 手当てせよ」と細川氏の家臣に命じた。家臣たちは細川宗孝の遺体をまだ生きている ものとして細川藩邸に運び、家中では急いで跡継ぎを弟の細川重賢として幕府に届け 出て、藩主・宗孝は介抱のかい無く、死去したことにして事無きを得たと言われて いる。 1752年、仙台藩は大凶作に見舞われた。このため、亘理領の農民・北原金平に年貢 を軽くして欲しいとの直訴を受けたが、参勤交代の帰途での直訴であったため、宗村 は北原金平を宅地・田畑没収のうえ、磔刑とした。 1756年、39歳で死去。死後、家督は次男の伊達重村が継いだ。 **************************************************************************** 伊達 重村(だて しげむら) 1742年5月23日(寛保2年4月19日) - 1796年5月27日(寛政8年4月21日) 仙台藩の第7代藩主で、伊達氏の第23代当主。第6代藩主・伊達宗村の次男。 幼名は儀八郎。通称は藤次郎。号は徹山。初名は國村、のち重村。1756年、父・ 宗村の死により家督を相続し、藩主となった。官位は従四位上、左近衛権中将、左兵 衛督、陸奥守。父と同じく学問を好み、和歌をよくし、また武勇を愛したと言われて いる。 重村が藩主の時代、東鳴子温泉に御殿湯が設けられた。また、重村の時代に釣師鰈 (いしがれい)は仙台藩の名産品となった。 仙台七夕まつり」が、旧暦の7月6日に行なわれるようになったのは、重村の娘が 7日に亡くなったからだと言われている。1790年、次男の伊達斉村に家督を譲って 隠居し、1796年に55歳で死去した。 **************************************************************************** 伊達 斉村(だて なりむら) 1775年1月6日(安永3年12月5日) - 1796年9月13日(寛政8年8月12日) 仙台藩第8代藩主。伊達氏第24代当主。父は第7代藩主・伊達重村(斉村は重村の 次男)。 幼名は式三郎。通称は総次郎。号は桂山という。1790年、父・重村から家督を譲られ、 第8代藩主に就任した。官位は従四位下、左近衛権少将。 武芸よりも詩文を好む教養人であった。1796年、岩松壽隆(喜惣治)が深山幽谷の 中に埋もれている作並の湯(現在の作並温泉・岩松旅館)を開き、世の多くの人々を 助けたいと願い出てきたため、それを許可したとの逸話がある。 同年、江戸より帰国の途中で病にかかり、帰国後に病没した。享年23。 死後、家督は長男の伊達周宗が継いだ。 **************************************************************************** 伊達 周宗(だて ちかむね) 1796年4月9日(寛政8年3月2日)-1809年(文化6 年) 仙台藩の第9代藩主で、伊達氏の第25代当主。第8代藩主・伊達斉村の長男で、第 10代藩主・伊達斉宗の兄。 幼名を政千代という。1796年、誕生した年に父が死去したことにより、堀田正敦(第 6代藩主・伊達宗村の八男で、近江国堅田藩主。のち下野国佐野藩主)の後見を受け て後を継ぎ、藩主となった。官位はなし。 誕生し、しかも同年のうちに藩主となった翌年には、仙台藩において歴代最大の百姓 一揆が発生した。これは、周宗の統治というよりも、家臣団で運営されていた統治が、 うまく機能していなかったためと言われている。 1809年、わずか14歳で死去。当然、嗣子がいるはずも無く、仙台藩は無嗣断絶の 危機に立たされた。しかし、国家老の中村日向の智謀により、周宗の死を何とか 3年間、隠蔽した(当時、嗣子(世子)を立てることができるのは、17歳のときで あり、14歳で死去した周宗に嗣子を立てることはできなかったのである)。 そして3年後の1812年4月24日、周宗は弟の斉宗を嗣子として立てた後に亡くなっ たことにしているのである。 こうして、伊達氏は改易の危機を切り抜けたのである。 ところで、本当に周宗の死を3年間も隠匿できたのであろうか。実は一説には、幕府 は周宗の死を知っていたが、伊達氏は東北でも最大の大藩なので、あえて放置して いたとも言われている。 また、この頃は第11代将軍・徳川家斉のもとで「大御所政治」と呼ばれる放漫的な 政治が行なわれていたため、伊達氏は幕閣に賄賂を贈って凌いでいたとも言われて いる。 しかしどちらにせよ、このような事態を幕府が見過ごしていたということは、すでに 幕府権力の衰退を物語るといってもよいのではないのであろうか。 **************************************************************************** 伊達 斉宗(だて なりむね) 1796年10月15日(寛政8年9月15日) - 1819年7月15日(文政2年5月24日) 仙台藩の第10代藩主で、伊達氏の第26代当主。第8代藩主・伊達斉村の次男で、 第9代藩主・伊達周宗の弟に当たる。 幼名は徳三郎、総次郎。名は徳純、宗純、のち斉宗。号は英山。兄・周宗は1809年に 14歳で亡くなった。勿論、周宗には実子は無く、養嗣子も立てていなかったため、 本来ならば伊達氏は無嗣断絶するはずであったが、伊達氏は幕府に周宗の死を隠匿し、 4年後に斉宗を世子として立てた後に死去したことにして、斉宗を擁立したのである。 官位は従四位下、左近衛権少将、陸奥守。 斉宗は詩歌、剣術、槍術を好んだ教養人であった。1812年、内ケ崎家(現在の内ケ崎 酒造)より献酒があり、翌1813年、「初霜」と「初霞」の銘を贈ったという逸話が ある。 1819年、28歳の若さで死去。死後、家督は養嗣子(第5代藩主・伊達吉村の八男・ 伊達村良の子で一関藩主・田村村資の四男)の伊達斉義が継いだ。 **************************************************************************** 伊達 斉義(だて なりよし) 1798年4月22日(寛政10年3月7日) - 1828年1月13日(文政10年11月27日) 仙台藩の第11代藩主。伊達氏の第27代当主。父は第5代藩主・伊達吉村の八男・ 伊達村良の子で一関藩主・田村村資(斉義は村資の三男とも四男とも言われている)。 第10代藩主・伊達斉宗の養嗣子となり、1819年の斉宗の死により家督を継ぎ、第 11代藩主に就任した。官位は従四位下、左近衛権少将、陸奥守。1827年、30歳の 若さで死去。実子の伊達慶邦は幼かったため、養嗣子の伊達斉邦が後を継いだ。 **************************************************************************** 伊達 慶邦(だて よしくに) 1825年10月17日(文政8年9月6日) - 1874年(明治7年)7月12日) 仙台藩第13代藩主。伊達氏第29代当主。父は第11代藩主・伊達斉義(慶邦は次男)。 1841年、第12代藩主・伊達斉邦が25歳で夭折した。慶邦には兄がいたが、この兄も 早世していたため、家督を継いで第13代藩主に就任したのである。官位は従四位下、 権中将、陸奥守。 慶邦は実質的な最後の仙台藩主で、1868年に東北諸藩で成立した奥羽列藩同盟の 盟主となった。しかし慶邦自身が優柔不断な性格のため、味方の諸軍の統率がうまく いかず、おまけに同盟の結束は弱かったため、九条道孝率いる薩長軍に大敗を喫し、 謹慎を申し渡された。このとき、「竹に雀を袋に入れて後でおいらのものにする」と 嘲笑されたという。 同年、四男の伊達宗基に家督を譲って隠退し、1874年に50歳で死去。子宝祈願の ため、東鳴子温泉に後室と共に湯治に訪れたことがあるという。 慶邦は優柔不断な人物と言われているが、彼自身の性格よりも、伊達氏がすでに武門 として弱体化していたことが原因だったのかもしれない。歴代藩主は若死にが多く、 初代の伊達政宗の頃と比べて、この頃の伊達氏ではすっかり文弱傾向にあったので ある。 **************************************************************************** 伊達 宗基(だて むねもと) 1866年(慶応2年) - 1917年(大正6年)1月27日) 仙台藩第14代藩主。伊達氏第30代当主。父は第13代藩主・伊達慶邦(宗基は 慶邦の四男)。 1868年、父・慶邦が奥羽列藩同盟の盟主になったために罰された。このため、父から 家督を譲られて、第14代藩主に就任したのである。しかし、父が奥羽列藩同盟の盟 主になったため、62万石の所領を28万石に減封された(一説には、宗基が幼少のた めに減封されたとも言われている)。 1869年の版籍奉還後、仙台藩知事となる。官位は正四位。 しかし、幼少であるため、そして本来なら慶邦の後を継ぐのは養子の伊達宗敦であっ たため、1870年に謹慎を解かれた宗敦に藩知事の座を譲って隠退した。 廃藩置県後、伯爵となる。1911年には正三位。1917年には従二位。同年、52歳で 死去する。 **************************************************************************** 伊達 宗敦(だて むねあつ) 1852年(嘉永5年)-1907年(明治40年)1月6日) 仙台藩知事(在任中の伊達氏の当主は30世14代伊達宗基のまま)。 父は伊予国宇和島藩主・伊達宗城(政宗次男・忠宗の子孫)。 第13代藩主・伊達慶邦の養子となり、本来なら慶邦の後を継いで第14代藩主を継ぐ はずであったが、1868年に養父・慶邦が奥羽列藩同盟の盟主となったために新政府軍 から謹慎を申し付けられたとき、宗敦も廃嫡されてしまったため、後を継ぐことが できず、14代藩主には慶邦の四男・伊達宗基が継いだのである。しかし宗基は幼少で あったため、1869年に版籍奉還された後、宗基は藩知事になったものの幼少のために 政務をとることができず、1870年に新政府は宗敦の謹慎を解いて、宗基の代わりに 宗敦を新たな藩知事として任命した。 官位は正四位。 仙台藩知事として実質的な政務を行ったが、伊達氏当主は宗基のまま であり、伊達氏当主歴代には数えない。 1871年の廃藩置県後、イギリスに遊学した。1884年に新たに家を興し、1888年には 男爵となった。1890年以降は貴族院議員。1919年には谷干城らと共に山県有朋を糾弾 するという気骨を見せている。同年、六男の伊達順之助らが山県有朋暗殺計画を企て たが、さすがにそれに対しては事前に制止させた。 ちなみにこの六男・順之助は、「夕日と拳銃」や「闘神」のモデルとなった伊達順之助 である。1907年に56歳で没する。 **************************************************************************** 現在の伊達家当主は伊達泰宗さんです。 |
