雑記録

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▼ 源義経と兄たち
[ 日本史 ]
大河ドラマで話題の義経の兄弟を調べてみた。
父親の源義朝は若くして子供に恵まれていたんだな…


   系図はこちら 


長男 源義平 1141-1160 母親は三浦義明の娘
(鎌倉源太義平)
幼少より坂東で育ち、武者としても逞しく通り名も『悪源太』。
悪いという意味でなく、強い源氏の子という意味。
その名前の通り、14歳で父・義朝の命じられて叔父の義賢を討ち取る。
この時の武勇は都にも知れ渡り、平治の乱には義朝に呼び出されて平家
一門と戦った。なかでも、平重盛との一騎討ちは重盛を怯えさせ退けた。
平治の乱敗退後、一度は北陸を出て危機を脱したが父が暗殺されたり
弟・頼朝が捕らわれたのを知ると、清盛暗殺を計画して京都に潜入。
しかし、潜入先の店で店子として機会を覗っていたが、店の主人より
上座に座っていた店子の存在が怪しいと密告されて平家の追討にあう。
奮戦したが、痩せた体では太刀打ち廻りできず自ら捕らわれて清盛と
対面して相打ちを目論んだが、清盛は対面せずに斬首を命じた。
六条河原で討たれる時に『仰向けに倒れて平家を呪ってやる』と言い、
本当に仰向けに倒れて討たれた。
(首打たれて仰向けになるのはムリに近い)
その後、暫く都では奇怪な出来事が続いたり、義平の刑罰に関わった
人物が怪死したりして、悪源太の呪いだと都雀を脅かさせた。


次男 源朝長 1143-1160 母親は波多野氏

幼少の記録は少なく、武将の子供というよりおとなしい性格だった。
平治の乱で敗退の折に足を負傷したため、敵に捕らわれて命絶たれる
より、父に討たれたいと願い出て義朝に斬られた。


三男 源頼朝 1147-1199 母親は熱田神宮大宮司・藤原季範の娘。

家柄では兄弟の中で一番高かったので、父親は頼朝を幼少の頃から
嫡男として扱っていたそうだ。その事を知らされる事実としても
源家の家宝である源太産着(鎧)と鬚切の太刀(脇差)を授かった。
平治の乱が初陣となり、敗退の途中に父親一行とはぐれて平家に捕らわ
れた。源氏の嫡男という立場から清盛は斬首を命じたが、継母の池禅尼
らに助命嘆願をされて伊豆流刑に決まった。
池禅尼の亡くした子供と容姿が似ており、亡くなった年頃も頼朝と似た
年齢だったようだ。

伊豆流刑後はひたすら一族の供養の為に読経三昧の日々を送り、監視の
北条時政たちも平家反逆は無いものと安心させる。しかし頼朝の周囲には
源氏ゆかりの家臣たちも集まってきており、頼朝自身も情勢は把握していた。
最初の子供は伊東氏の娘との間に男子が生まれていたが、2歳の時に京都
から帰ってきた伊東祐親に知られてしまい、平家の目を恐れた伊東祐親に
よって海に捨てられてしまった。
その後は北条政子と知り合い、やはり平家の監視役という立場の時政として
は快く思わないので、伊豆判官の山木氏に嫁がせる事にした。それを知った
頼朝は山木判官を奇襲して政子を取り返し、北条時政も腹をくくって頼朝に
加担していった。

以仁王の令旨を受けた後に頼朝は挙兵。石橋山の合戦では大庭景親と
対戦したが、多勢に無勢で敗退。追討していた梶原景時に見逃されて危機を
脱した。その後は三浦水道を渡って房総半島に上陸。ここから軍隊の召集を
していき、体制を整えて鎌倉入りを果たす。鎌倉に拠点を構えた後は坂東
制圧に着手していき、従わない氏族や叔父・志田義広も追討していった。
関東平定後は大軍を率いて頼朝追討に来た平維盛と富士川で対陣。
平家の背後を衝こうとした甲斐源氏・武田氏の部隊が川を渡ろうとした時に
水鳥が一斉に飛び出し、すごい羽音が両方の陣に聞こえ響いた。両陣とも
敵の奇襲と察し、軍規整った源氏は戦闘体制につくが、軍規乱れた平家側は
武具を捨てて一気に三河付近まで逃げてしまった。この合戦の帰途に黄瀬川
で奥州から駆け付けた弟・義経と対面。後三年の役で兄・義家の応援に駆け
付けた弟・義光の故事と照らし合わせて喜んだという。

範頼・義経という一族の大将を得た頼朝は以後鎌倉にて着々と武家政治体制
を固めていく。木曽義仲を討ち取り、源氏の主体を完全に頼朝の手中に収める。
武士は武家の制度で固めていくという頼朝の姿勢により、恩賞も朝廷からでは
なく頼朝を通じて行なう体制にしようとしたが、これを良く思わない後白河法王の
策略も加わって断りもなく朝廷から検非違使を任じられた弟・義経に怒りを覚える。
その後は武士の統一の為には頼朝の弟でも断じて許さないという態度を示すために、
義経追討を決めた。上京して後白河法王から義経追討の院宣を受けると今度は
追討の為にと、全国各地に守護・地頭を配置して鎌倉政権が全国に行き届く体制を
作り上げた。武士・頼朝の台頭を防ぎたかった為に、義経を立てた後白河法王と
しては逆に頼朝の幕府体制をアシストするという結果となった。

義経を奥州藤原氏によって討たせた後、今度は義経を匿ったという理由で奥州
藤原氏を追討し、三すくみ体制を打破に成功。後白河法王死後には征夷大将軍と
なり、鎌倉幕府体制を作り上げた。
1199年に相模川架橋式典の帰途に橋上で落馬し、それが原因で重態となって
死去した。

一族を尽く血で血を洗う粛清したことにより、彼の子孫もほとんどが非業の死を
遂げて行く…


四男 源義門 生没年不詳 母親不詳(頼朝と同母説もある)

早世したらしく、何も記録がない。


五男 源希義 1152-1182 母親は頼朝と同じ。
(土佐冠者希義)
駿河国沼津付近にて育てられていたが、平治の乱の時に平家に捕らわれて
土佐国介良荘に流刑となった。その地で成人したので『土佐冠者』と呼ばれ
以仁王の令旨による平家追討の気運に乗じて希義も四国で挙兵を企てるが、
平家側に事前察知されてしまい、追討命令を受けた蓮池家綱・平田俊遠に
急襲されて自刃した。
一部では頼朝による暗殺説もあるが、頼朝はこの弟の死を悲しんでおり、
希義の遺児・希望を取り立て土佐国介良荘を与えた。彼の子孫は土佐の
吉良氏となり戦国時代にも名が出てくる。


六男 源範頼 1156-1193 母親は遠州浜松の遊女
(蒲冠者範頼)
生まれた遠州で育ち、頼朝挙兵の折に兄・頼朝の幕下に付くが時期は不詳。
関東平定の時に鎌倉軍大将格になる。その後は木曽義仲追討の時には弟
義経と共に征伐軍大将として軍功を認められた。
平家西国追討戦では戦線拡大しすぎて平家に糧道を断絶されて苦戦を強いられ
鎌倉の兄に度々窮状を綴った書状を送った。弟の窮状を助けるために謹慎を
命じていた義経を援軍の総大将として西国に送り出した。その結果範頼は
兵糧と船団を調達して豊後に渡り、九州の平家拠点を叩く事に成功し、
壇ノ浦の戦いでの勝利の足固めになった。
平家追討後、義経の征伐を決めた頼朝に義経追討命令を受けたが、義経の
武勇と戦略を知り尽くした範頼はこれを固辞。これを機に頼朝との間に
溝が出来始める。曽我兄弟討ち入り事件の時に頼朝暗殺説が鎌倉に流れ、
この件を聞いた範頼が北条政子に『兄亡き後はそれがしがおります』という
ような発言をしたため、頼朝の怒りを買ってしまい伊豆の修善寺に幽閉された。
その後、頼朝の討手が差し向けられたため範頼は自刃した。

後日、相模川の橋で頼朝が落馬してその後に亡くなった事件があるのだが、
その落馬の原因は範頼家臣の怨みによる頼朝暗殺説ともあるらしい。


七男 阿野全成 1153-1203 母親は常盤御前
(醍醐禅師)
平治の乱の後に平家方に捕らわれて京都醍醐寺で出家させられた。頼朝の
挙兵を知ると、寺を抜け出して頼朝幕下に駆け付けた。
頼朝幕下でも着々と地位を固めており、妻は北条政子の妹で頼朝の嫡男・
頼家の乳母も勤めた。
頼朝死後は将軍になった頼家と対立する立場となり、後に頼家によって常陸へ
追放されて殺害された。

全成の娘は藤原家に嫁いでおり、その子孫は阿野廉子で後醍醐天皇との間に
授かった皇子は即位後、後村上天皇となった。


八男 源義円 1155-1181 母親は常盤御前

平治の乱後に捕らわれて京都園城寺にて出家させられた。頼朝挙兵の時に
参加し、叔父・行家の軍に加わるが墨俣川の合戦で平重衡の軍と対戦したが、
行家の不甲斐ない指揮の下で軍隊は敗退。孤立した義円はその時に戦死した。


九男 源義経 1159-1189 母親は常盤御前

河内源氏棟梁・源義朝の9男。
幼名・牛若。稚児時代は遮那王。
平治の乱の折りにはまだ乳児だったため7歳まで母・常盤御前の
もとで育てられる。


その後は鞍馬寺に預けられ稚児生活を過ごした。
この時に父の遺臣達が密かに訪れて世の中の形成や義経の
生い立ちを教え、武道を享受して平家打倒の道筋をたてたとも言わ
れている。
この時の過ごし方が鞍馬天狗と武者稽古などと伝説化された。


16歳あたりの時に父の遺臣達の手引きにより奥州藤原氏の家臣
金売り吉次と共に平泉に向かった。
旅の途中、熱田神宮にて元服し、九郎義経と名乗る。
義は父親・義朝から、経は源氏の祖・経基王から引き継いだ。
(4男が早世しているので本来は8男だが、叔父に鎮西八郎為朝が
いるので、遠慮したという説もある。)


奥州平泉では鎮守府将軍・藤原秀衡の庇護を受けて成長していき、
この地で妻を娶って女児に恵まれたという説もある。


治承4年(1180)、異母兄・頼朝の旗揚げに参ずるために平泉より
出陣。この時に佐藤継信・忠信兄弟が家臣に加わった。
富士川の合戦には間に合わず、鎌倉に帰還する頼朝軍とは黄瀬川
で合流。
この時に頼朝は後三年の役の故事を語って涙を流しながら義経を
迎えた。
(後三年の役、出羽清原一族の抵抗に苦戦する源義家の援軍として
弟の義光が都での官位を投げ捨てて駆け付けたという故事)


暫くは鎌倉に滞在して屋形を構えて落ち付くが、兄・頼朝の態度が
弟をも家臣と同列に扱うのが義経主従に暗い影をおとす。
八幡宮落成のおりには、宮大工の棟梁に授ける馬の轡引く役目を
義経に命じた。
頼朝としては軍隊自体も豪族の寄り合いなので、一族を優遇する
わけにもいかない。それで弟でも家臣同様というデモンストレーションを
敢行しただけにすぎない。
そして、坂東武者との繋がりを深めるために河越重頼の娘を嫁に
とらせた。


1181年、異母兄・範頼の副将として木曽義仲討伐軍で鎌倉出陣。
宇治川で対陣し、滋賀県粟津付近で義仲を討ち取った。
1183年に京に入り、水軍で増強してきた平家軍と播磨国で対立。
大手軍に範頼、搦め手軍に義経率いる精鋭軍で一の谷を奇襲し、
平家軍を海に追いやった。
この時の戦い方が鵯越の戦い。急斜面の崖から背後の平家軍に
奇襲を仕掛ける方法。
鹿が降りれる崖ならば同じ4本足の馬でも降りられるはずだという
物語はここから出ている。


その後、京に凱旋した時に後白河法皇より従五位下検非違使に任官。
この頃から九郎判官と呼ばれる。
これが頼朝の許可無しに任官したため怒りを買ってしまう。
(頼朝としては武士は武家の指揮下に収めたいので任官は頼朝を
通じるようにと、事前に下知してあった)


1184年、西国で苦戦している範頼軍を救援するために再び
軍隊の指揮を許可されて京より出陣。
この時に四国に渡るために渡辺党の水軍を手配する。だが、船の
櫓の付け方で軍監の梶原景時と対立してしまい、景時は義経の行動を
批判的に鎌倉に送付してしまう。
(一の谷の戦い方でも両者は対立している。)


四国上陸後は平家方の豪族を蹴散らして、勢力を源氏方に塗り替え、
屋島の戦いでは平知盛・重衡ら主力軍のいない平家軍は壊滅。
平家方に海上の船の扇にまで坂東武者の弓は届くまいと挑発されて
那須与一に弓を放たせて見事に射抜いたのはここでの話。
この時の戦いで奥州からの家臣だった佐藤継信が平教経の矢から
義経を守るために身を挺して戦死した。
壇ノ浦に平家追い詰め、範頼軍と合流して水軍を増強して潮の流れを
利用して平家一族を滅亡させた。(1185年)
義経八艘飛びは、ここでの戦いで平教経との戦いで船を飛び越えて戦う
という話。


京に戦勝凱旋し、鎌倉に平家の棟梁・平宗盛親子を鎌倉に護送するが
頼朝はこれを拒否し、腰越から先に入れさせなかった。
これには軍監・梶原景時より、京で平時忠の娘と婚約した事、安徳天皇
の母・建礼門院徳子を助けた後に庇護した事、平宗盛親子を囚人扱い
せず貴人扱いで護送した事などが報告されていた。
それとは別に、坂東武者達が戦術巧みな義経の魅力に惹かれつつある
点も武家政治を始める頼朝には不都合だった。


腰越で自らの心情をしたためた腰越状も側近・大江広元によって握られ
頼朝の目には触れられなかった。


その後失意のうちに京に向かい、途中近江国付近で平宗盛父子を斬首。
京では堀川屋敷に滞在し静御前と過ごすが、鎌倉からの追っ手の襲撃に
遭うが、返り討ちにする。
鎌倉との対立は避けられないと判断した義経は、同じく頼朝の不興を
かっていた叔父・行家と後白河法皇に頼朝追討の院宣を乞う。
義経の武略と人気を読み、目の上の瘤となった頼朝を討つなら今、と判断
した法皇は院宣を与えた。
だが、武略に富んだ義経だが、政治力では頼朝に及ばない。
頼みとした坂東武者はだれも従わず、義経は逆境に陥った。


また、頼朝の逆鱗を恐れた法皇は頼朝から願い出された義経・行家追討の
院宣を与えた。この時に頼朝は義経を義行という名に変えさせている。
立場が危うくなった義経・行家は四国・西国に落ちようとしたが、船は嵐で
難破。一行は散り散りになった。
行家は紀州の山に隠棲していた所を北条軍に見つかり斬首。
義経主従は吉野山に身を潜めていたが、追っ手に見つかり追討される。
この時に、佐藤忠信が戦死、静御前が捕らわれた。


一度、京に潜伏した義経主従は北陸から奥州・藤原氏を頼りに逃避。
安宅関では守護職の富樫氏に見つかったが、武蔵坊の勧進帳で窮状を
訴えて、相手方の同情を得て窮地を脱し、無事平泉に到達した。


捕らわれた静御前は鎌倉に護送され、頼朝に八幡宮にて源氏戦勝を祝う
舞いを奉納するよう命じられたが、義経を慕う心情を訴える舞いだった。
当然頼朝は激怒したが、妻・政子に女性の心理を理解するよう宥められた。
この時に義経の子を身篭っていた静御前は鎌倉で男子を出産。しかし、
見る事なく由比ガ浜に遺棄されてしまった。
出産後、赦免された静御前は京に向かうがその後の消息は定かでない…


奥州滞在中にも何度か鎌倉から義経引き渡すよう通達があったが、秀衡は
これを突っぱね、逆に攻めこまれた時に備えて奥州17万騎といわれる
強大な兵力を義経を将軍とするように子息の泰衡・国衡・忠衡に指示する。
だが、間もなく秀衡が亡くなり、鎌倉からの圧力に耐えられなくなった泰衡は
義経追討を決意。500騎の兵力で10騎足らずの義経主従に襲撃をかけた。
この時の義経一行は河越頼重息女の妻と2人の娘、武蔵坊弁慶・常陸坊
海尊、伊勢三郎・鷲尾六郎…
衣川・高館の義経は妻子と共に屋形に火をかけて自刃した。(1189年)
author : とらすけ | 00:00 | comments(7) | trackbacks(0) |


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