雑記録

シーズン中は観戦記
その他は色々な事を…
▼ 伊達政宗とその子孫
[ 日本史 ]
久しぶりの日本史カテゴリーをアップ!
今、スカパーで独眼竜政宗を見ているので、政宗とその子孫を調べてた。

いやいや、仙台七夕の由来もあったのには初めて知った!!


あと・・・
第3代藩主が政宗嫡孫・光宗が健在で継いでいたら伊達氏の歴史も多少
変化していたでしょうね。


*******************************************************************


伊達 政宗(だて まさむね)
永禄10年8月3日(1567年9月15日) - 寛永13年5月24 日(1636年6月27日)
戦国時代の奥州の戦国大名で仙台藩初代藩主。伊達氏第16代当主・輝宗と最上義守の
娘(最上義光の妹)・義姫の長男として幼名は梵天丸。
字は藤次郎。諡号は貞山。幼少時に患った疱瘡(天然痘)の後遺症により右目を失明、
また勇猛で知られたため、後に独眼竜との異名がついた。
「政宗」という名前は、伊達家中興の祖と言われる室町時代の九代当主の政宗
(大膳大夫)にあやかったもの。
1584年(天正12)に19歳で家督を相続する。

**伊達 政宗(だて まさむね)
文和2年/正平8年(1353年) - 応永12年(1405年)
室町時代の武将である。父は伊達宗遠。
伊達家の九代当主。妻は室町幕府将軍足利義満の生母紀良子の妹。1377年に家督相
続。1400(応永7)年に鎌倉公方足利満貞が伊達氏に対して領土割譲を求めてきた事
を拒み対立する。
1413(応永20)にも関東公方足利持氏と戦い、応永の乱においても鎌倉を牽制して
いる。伊達氏中興の祖と言われる。**

少年期
出羽国米沢(山形県米沢市)、米沢城に生まれる。元亀2年(1571年)、疱瘡(天然
痘)に罹り右目を失明する。失明後、母親の義姫から姿が醜いとされ弟の伊達小次
郎に愛情を注がれることになる。元亀3年(1572年)、臨済宗の虎哉宗乙(こさい
そういつ)禅師による教育が始められ、仏教や漢学を学ぶ。天正3年(1575年)片倉
景綱(小十郎)が側近となる。

青年期
1577年(天正5)に元服、1579年(天正7)には仙道の大名で三春城主田村清顕の
娘愛姫(めごひめ)を正室とする。1581年(天正9年)、隣接する相馬氏との領地
争いに15歳で初陣し、勝利を収める。 1584年(天正12)に19歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。1585年(天正13)に父の輝宗が二本松城主の畠山義継に
拉致され謀殺される。畠山氏の二本松城を包囲し、畠山氏や佐竹氏など反伊達連合
軍と安達郡人取橋で戦う。政宗は伊達氏の領土拡張政策を行い、1588年(天正16)に
郡山合戦、1589年(天正17)には会津の蘆名義広・佐竹氏の連合軍を摺上原の戦い
(磐梯山麓)で破り、奥州南部をほぼ制覇する。

豊臣政権期
この頃中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承しており、1590年(天正18)の
秀吉の奥州仕置では政宗は小田原へ参陣して秀吉に臣従を誓い、本領を安堵される。
参陣前には自身の身を転覆させようとしている母親を止めるために弟の伊達小次郎に
対し切腹を命じた。翌1591年には蒲生氏郷とともに大崎・葛西一揆を平定し、玉造郡
岩出山城に58万石を与えられ、後に加増されて62万石となる。1592年(文禄2)
秀吉の朝鮮出兵にも従軍して朝鮮半島へ渡る。また、普請事業なども行う。豊臣政権
では五大老である徳川家康に接近し、1599年には娘の五十八(五郎八)姫(いろは
ひめ)を家康の6男、松平忠輝と婚約させる。
朝鮮出兵時に政宗があつらえさせた戦装束は大変に華美なもので、出兵の道中にお
いて盛んに巷間の噂となり、これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達
者だてもの)」と呼ぶようになった、と伝えられる。

徳川政権期
秀吉の死後の1600年(慶長5)に家康が会津の上杉景勝に謀反容疑をかけ、討伐
を行うと従軍して白石城を攻略し、南部領国での一揆扇動を行っている。家康の留守
中に五奉行の石田三成らが家康に対して挙兵し、関が原の戦いになると、家康ら東軍
に属する。1601年には仙台城、城下町・仙台の建設をはじめ、居城を移す。
1614年(慶長19)の大坂の役でも戦う。また、家臣の支倉常長らの慶長遣欧使節団を
メキシコからイスパニア、ローマにまで派遣して独自に海外貿易を試みている。
2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕え、寛永13年(1636年)5月江戸で死亡。
享年70。死の時まで仙台藩主の座にあった。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道
噴門癌)と推定されている。死後作られた木像や画には両目が入れられている。

辞世の句は、「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く」

法名:瑞巌寺殿貞山禅利大居士(尊称:貞山公)
墓所は仙台市青葉区霊屋下の瑞鳳殿(ずいほうでん)で、1974年(昭和49)には発掘
が行われて遺骨や副葬品の調査が行われた。調査の結果、政宗の身長は159.4cm、
血液型はB型(BO型)であったと推定された。

正室愛姫と、少なくとも七人の側室がおり、先述の五郎八姫など十一男四女の父
となった。また外国人女性の側室もいたというが、これは山岡荘八の創作であり
史実ではない。愛姫との間にもうけた次男忠宗を後継者とし、側室飯坂氏(通称・
猫御前)との間に生まれた長男秀宗には宇和島10万石の領地を与えて分家させている。

****************************************************************************
伊達 忠宗(だて ただむね)
1600年1月23日(慶長4年12月8日) − 1658年8月10日(万治元年7月12日)

伊達政宗の次男。正室は池田輝政の娘ほか側室。子に伊達綱宗ほか。仙台藩の第二代
藩主。虎菊丸。
生母が政宗の正室・愛姫(陽徳院、田村清顕の娘)だったため、庶長子であった兄・
秀宗を差し置いて本家の後継者と定められた。1636年(寛永13年)、父・政宗の死去
に伴い、38歳で家督を相続する。

忠宗は徳川氏から妻を迎えて幕府との関係を強めると共に、仙台藩の地位と基盤固
めに務めて大いに功績を残したため、『守成の名君』と評された。1658年に死去、
享年60。

法名:大慈院殿義山崇仁大居士
墓所:宮城県仙台市青葉区霊屋下の伊達家墓所である感仙殿
****************************************************************************
伊達 綱宗(だて つなむね)
1640年9月23日(寛永17年8月8日) − 1711年7月19日(正徳元年6月4日)

仙台藩第3代藩主で、伊達氏第19代当主。父は第2代藩主・伊達忠宗(綱宗は忠宗の
六男)。母は後西天皇の母・逢春門院の妹・貝姫。

幼名は巳之介。母が天皇の母の妹に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係に
なる。1658年、父・忠宗の死により家督を継いで第3代藩主に就任する。官位は従四
位下。左近衛権少将。陸奥守。美作守。

しかし綱宗自身が若年で暗愚だったため、酒色に溺れて藩政を顧みなかったこと、
さらには叔父に当たる一関藩主・伊達宗勝(伊達政宗の十男で、忠宗の弟)の政治干
渉、そして家臣団の対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされ
て幕命により1660年、21歳の若さで隠居させられた。家督は綱宗の2歳の長男・
伊達綱村(亀千代丸)が継いだ。

綱宗が酒色に溺れ、わずか2歳の長男・綱村が藩主となったことは、後の伊達騒動
発端の遠因になったのである

****************************************************************************
伊達 綱村(だて つなむら)
1659年4月29日(万治2年3月8日) − 1719年8月5日(享保4年6月20日)

仙台藩の第4代藩主で、伊達氏の第20代当主。第3代藩主・伊達綱宗の長男。

幼名は亀千代丸。総次郎。初名は綱基。1660年、父・綱宗が酒色に溺れて藩政を
顧みなかったことなどから、幕命によって隠居させられたため、わずか2歳で家督を
継承し、第4代藩主に就任した。官位は従四位上、左近衛権中将、陸奥守。
しかし2歳で藩政を取り仕切ることは不可能であるため、綱宗の叔父に当たる伊達宗
勝(一関藩主)や、自身の叔父に当たる田村宗良(岩沼藩主)などが後見人となった。

しかし、家中では先代・綱宗の時代から続く家臣団の対立や大叔父・宗勝の専横など
が続き、伊達氏の家中は混乱が続いた。しかも1666年には、綱村自身が何者かの手
(宗勝が首謀者と言われている)によって毒殺されかけるほどであった。

このような混乱続きの中での1671年、伊達騒動(寛文事件)が勃発し、伊達氏は
改易の危機に立たされたが、綱村自身が若年であったことから幕府の裁定ではお咎め
なしとされ、宗勝ら関係者が処罰されることとなった。こうして、仙台藩は改易の
危機から免れたのである。

その後、綱村は自ら政務を執り始める。まず、防風林を設け、運河を開発するなどの
治績で大きな成果を収めた。また、儒学を学び、多数の学者を招聘して藩史の編纂に
尽力した。さらに仏教に帰依して寺院の建立、神社の造営に尽力し、「仙台藩中興の名
君」と讃えられた。しかし、寺院や神社の造営など、様々な改革を行なったことが
かえって藩財政を逼迫させることとなり、これを解決しようと1683年に藩札の発行を
行なったが、かえって物価の高騰を招き、仙台藩の財政はさらに悪化の一途をたどっ
た。
このため1703年、伊達一族から強要されて、隠居を余儀なくされた。
長男は早世していたため、家督は養嗣子で第2代藩主・伊達忠宗の八男・伊達宗房の
長男である伊達吉村が継いだ。

ちなみに、平泉にある源義経ゆかりの高館・義経堂は天和三年(1683年)、綱村に
よって建立された。
綱村は1719年、61歳で死去した。仙台藩の歴代藩主の中では、藩祖の伊達政宗を
例外とすれば、名君の一人と言えるであろう。1924年、従三位を追贈されている。
****************************************************************************
伊達 吉村(だて よしむら)
1680年7月23日(延宝8年6月28日) − 1752年2月8日(宝暦元年12月24日)

仙台藩の第5代藩主で、伊達氏の第21代当主。父は第2代藩主・伊達忠宗の八男・
伊達宗房(吉村は宗房の長男)。母は片倉景長の娘。

第4代藩主・伊達綱村の長男・扇千代丸が早世したために養嗣子となり、1703年に
綱村が伊達一族の強要で隠居させられた後を受けて、家督を継いだ。官位は従四位上、
左近衛権中将、陸奥守。先代の綱村が行なった改革により、この頃になると仙台藩の
財政は著しく逼迫していた。このため、吉村は財政再建のために藩政改革を行なう。
まず、1727年に幕府の許可を得て「寛永通宝」を石巻で鋳銭し、それを領内で流通
させることで利潤を得た。また、買米仕法を再編強化し、農民から余剰米を強制的に
供出させ、それを江戸に廻漕して利益を増大させ、藩財政を潤わせた。このため、18
世紀初めから中頃にかけての江戸市中に出回った米のほとんどが、仙台藩の産物で
あったと言われているほどである。

また、吉村自身が書、絵画、和歌などの文学面に優れており、吉村は藩内に学問所を
開いて学芸を奨励した。1743年、四男の伊達宗村に家督を譲って隠居し、1751年に
72歳で死去した。

吉村は仙台藩の財政を再建したことから、綱村と並んで「中興の名君」と呼ばれて
いる。1928年、従三位を追贈された。また、青根温泉には吉村以降の入浴日記が残
されている(現在は青根温泉、湯元不亡閣の館内に展示)。

****************************************************************************
伊達 宗村(だて むねむら)
1718年6月25日(享保3年5月27日) − 1756年6月21日(宝暦6年5月24日)

仙台藩の第6代藩主で、伊達氏の第22代当主。第5代藩主・ 伊達吉村の四男。

第8代将軍・徳川吉宗から偏諱を受けて宗村と名乗った。1743年、父・吉村から
家督を譲られ、第6代藩主となった。官位は従四位上、左近衛権中将、陸奥守。
父と同じく学面に優れ、多くの書を残している。また、馬術、槍術、剣術、軍術、
砲術にも精通していた智勇兼備の人物であった。

宗村が智謀に優れていたことを現す逸話がある。1747年8月15日、江戸城本丸
大広間において、熊本藩第5代藩主・細川宗孝が旗本の板倉勝該に背後から斬りつけ
られ殺害された。上野国安中藩主・板倉勝清と間違えられたのが原因であるが、江戸
城での刃傷沙汰は例え間違いであってもお家断絶となる。そのとき、その場にたまた
ま居合わせた伊達宗村は気転を利かせ、「宗孝殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで
手当てせよ」と細川氏の家臣に命じた。家臣たちは細川宗孝の遺体をまだ生きている
ものとして細川藩邸に運び、家中では急いで跡継ぎを弟の細川重賢として幕府に届け
出て、藩主・宗孝は介抱のかい無く、死去したことにして事無きを得たと言われて
いる。
1752年、仙台藩は大凶作に見舞われた。このため、亘理領の農民・北原金平に年貢
を軽くして欲しいとの直訴を受けたが、参勤交代の帰途での直訴であったため、宗村
は北原金平を宅地・田畑没収のうえ、磔刑とした。

1756年、39歳で死去。死後、家督は次男の伊達重村が継いだ。

****************************************************************************
伊達 重村(だて しげむら)
1742年5月23日(寛保2年4月19日) - 1796年5月27日(寛政8年4月21日)

仙台藩の第7代藩主で、伊達氏の第23代当主。第6代藩主・伊達宗村の次男。

幼名は儀八郎。通称は藤次郎。号は徹山。初名は國村、のち重村。1756年、父・
宗村の死により家督を相続し、藩主となった。官位は従四位上、左近衛権中将、左兵
衛督、陸奥守。父と同じく学問を好み、和歌をよくし、また武勇を愛したと言われて
いる。
重村が藩主の時代、東鳴子温泉に御殿湯が設けられた。また、重村の時代に釣師鰈
(いしがれい)は仙台藩の名産品となった。

仙台七夕まつり」が、旧暦の7月6日に行なわれるようになったのは、重村の娘が
7日に亡くなったからだと言われている。1790年、次男の伊達斉村に家督を譲って
隠居し、1796年に55歳で死去した。

****************************************************************************
伊達 斉村(だて なりむら)
1775年1月6日(安永3年12月5日) − 1796年9月13日(寛政8年8月12日)

仙台藩第8代藩主。伊達氏第24代当主。父は第7代藩主・伊達重村(斉村は重村の
次男)。
幼名は式三郎。通称は総次郎。号は桂山という。1790年、父・重村から家督を譲られ、
第8代藩主に就任した。官位は従四位下、左近衛権少将。
武芸よりも詩文を好む教養人であった。1796年、岩松壽隆(喜惣治)が深山幽谷の
中に埋もれている作並の湯(現在の作並温泉・岩松旅館)を開き、世の多くの人々を
助けたいと願い出てきたため、それを許可したとの逸話がある。
同年、江戸より帰国の途中で病にかかり、帰国後に病没した。享年23。
死後、家督は長男の伊達周宗が継いだ。

****************************************************************************
伊達 周宗(だて ちかむね)
1796年4月9日(寛政8年3月2日)−1809年(文化6 年)

仙台藩の第9代藩主で、伊達氏の第25代当主。第8代藩主・伊達斉村の長男で、第
10代藩主・伊達斉宗の兄。

幼名を政千代という。1796年、誕生した年に父が死去したことにより、堀田正敦(第
6代藩主・伊達宗村の八男で、近江国堅田藩主。のち下野国佐野藩主)の後見を受け
て後を継ぎ、藩主となった。官位はなし。
誕生し、しかも同年のうちに藩主となった翌年には、仙台藩において歴代最大の百姓
一揆が発生した。これは、周宗の統治というよりも、家臣団で運営されていた統治が、
うまく機能していなかったためと言われている。

1809年、わずか14歳で死去。当然、嗣子がいるはずも無く、仙台藩は無嗣断絶の
危機に立たされた。しかし、国家老の中村日向の智謀により、周宗の死を何とか
3年間、隠蔽した(当時、嗣子(世子)を立てることができるのは、17歳のときで
あり、14歳で死去した周宗に嗣子を立てることはできなかったのである)。
そして3年後の1812年4月24日、周宗は弟の斉宗を嗣子として立てた後に亡くなっ
たことにしているのである。
こうして、伊達氏は改易の危機を切り抜けたのである。
ところで、本当に周宗の死を3年間も隠匿できたのであろうか。実は一説には、幕府
は周宗の死を知っていたが、伊達氏は東北でも最大の大藩なので、あえて放置して
いたとも言われている。
また、この頃は第11代将軍・徳川家斉のもとで「大御所政治」と呼ばれる放漫的な
政治が行なわれていたため、伊達氏は幕閣に賄賂を贈って凌いでいたとも言われて
いる。
しかしどちらにせよ、このような事態を幕府が見過ごしていたということは、すでに
幕府権力の衰退を物語るといってもよいのではないのであろうか。

****************************************************************************
伊達 斉宗(だて なりむね)
1796年10月15日(寛政8年9月15日) - 1819年7月15日(文政2年5月24日)

仙台藩の第10代藩主で、伊達氏の第26代当主。第8代藩主・伊達斉村の次男で、
第9代藩主・伊達周宗の弟に当たる。
幼名は徳三郎、総次郎。名は徳純、宗純、のち斉宗。号は英山。兄・周宗は1809年に
14歳で亡くなった。勿論、周宗には実子は無く、養嗣子も立てていなかったため、
本来ならば伊達氏は無嗣断絶するはずであったが、伊達氏は幕府に周宗の死を隠匿し、
4年後に斉宗を世子として立てた後に死去したことにして、斉宗を擁立したのである。
官位は従四位下、左近衛権少将、陸奥守。
斉宗は詩歌、剣術、槍術を好んだ教養人であった。1812年、内ケ崎家(現在の内ケ崎
酒造)より献酒があり、翌1813年、「初霜」と「初霞」の銘を贈ったという逸話が
ある。
1819年、28歳の若さで死去。死後、家督は養嗣子(第5代藩主・伊達吉村の八男・
伊達村良の子で一関藩主・田村村資の四男)の伊達斉義が継いだ。

****************************************************************************
伊達 斉義(だて なりよし)
1798年4月22日(寛政10年3月7日) − 1828年1月13日(文政10年11月27日)

仙台藩の第11代藩主。伊達氏の第27代当主。父は第5代藩主・伊達吉村の八男・
伊達村良の子で一関藩主・田村村資(斉義は村資の三男とも四男とも言われている)。

第10代藩主・伊達斉宗の養嗣子となり、1819年の斉宗の死により家督を継ぎ、第
11代藩主に就任した。官位は従四位下、左近衛権少将、陸奥守。1827年、30歳の
若さで死去。実子の伊達慶邦は幼かったため、養嗣子の伊達斉邦が後を継いだ。
****************************************************************************
伊達 慶邦(だて よしくに)
1825年10月17日(文政8年9月6日) − 1874年(明治7年)7月12日)

仙台藩第13代藩主。伊達氏第29代当主。父は第11代藩主・伊達斉義(慶邦は次男)。
1841年、第12代藩主・伊達斉邦が25歳で夭折した。慶邦には兄がいたが、この兄も
早世していたため、家督を継いで第13代藩主に就任したのである。官位は従四位下、
権中将、陸奥守。

慶邦は実質的な最後の仙台藩主で、1868年に東北諸藩で成立した奥羽列藩同盟の
盟主となった。しかし慶邦自身が優柔不断な性格のため、味方の諸軍の統率がうまく
いかず、おまけに同盟の結束は弱かったため、九条道孝率いる薩長軍に大敗を喫し、
謹慎を申し渡された。このとき、「竹に雀を袋に入れて後でおいらのものにする」と
嘲笑されたという。

同年、四男の伊達宗基に家督を譲って隠退し、1874年に50歳で死去。子宝祈願の
ため、東鳴子温泉に後室と共に湯治に訪れたことがあるという。

慶邦は優柔不断な人物と言われているが、彼自身の性格よりも、伊達氏がすでに武門
として弱体化していたことが原因だったのかもしれない。歴代藩主は若死にが多く、
初代の伊達政宗の頃と比べて、この頃の伊達氏ではすっかり文弱傾向にあったので
ある。

****************************************************************************
伊達 宗基(だて むねもと)
1866年(慶応2年) − 1917年(大正6年)1月27日)

仙台藩第14代藩主。伊達氏第30代当主。父は第13代藩主・伊達慶邦(宗基は
慶邦の四男)。
1868年、父・慶邦が奥羽列藩同盟の盟主になったために罰された。このため、父から
家督を譲られて、第14代藩主に就任したのである。しかし、父が奥羽列藩同盟の盟
主になったため、62万石の所領を28万石に減封された(一説には、宗基が幼少のた
めに減封されたとも言われている)。
1869年の版籍奉還後、仙台藩知事となる。官位は正四位。

しかし、幼少であるため、そして本来なら慶邦の後を継ぐのは養子の伊達宗敦であっ
たため、1870年に謹慎を解かれた宗敦に藩知事の座を譲って隠退した。
廃藩置県後、伯爵となる。1911年には正三位。1917年には従二位。同年、52歳で
死去する。

****************************************************************************
伊達 宗敦(だて むねあつ)
1852年(嘉永5年)−1907年(明治40年)1月6日)

仙台藩知事(在任中の伊達氏の当主は30世14代伊達宗基のまま)。
父は伊予国宇和島藩主・伊達宗城(政宗次男・忠宗の子孫)。

第13代藩主・伊達慶邦の養子となり、本来なら慶邦の後を継いで第14代藩主を継ぐ
はずであったが、1868年に養父・慶邦が奥羽列藩同盟の盟主となったために新政府軍
から謹慎を申し付けられたとき、宗敦も廃嫡されてしまったため、後を継ぐことが
できず、14代藩主には慶邦の四男・伊達宗基が継いだのである。しかし宗基は幼少で
あったため、1869年に版籍奉還された後、宗基は藩知事になったものの幼少のために
政務をとることができず、1870年に新政府は宗敦の謹慎を解いて、宗基の代わりに
宗敦を新たな藩知事として任命した。
官位は正四位。 仙台藩知事として実質的な政務を行ったが、伊達氏当主は宗基のまま
であり、伊達氏当主歴代には数えない。

1871年の廃藩置県後、イギリスに遊学した。1884年に新たに家を興し、1888年には
男爵となった。1890年以降は貴族院議員。1919年には谷干城らと共に山県有朋を糾弾
するという気骨を見せている。同年、六男の伊達順之助らが山県有朋暗殺計画を企て
たが、さすがにそれに対しては事前に制止させた。
ちなみにこの六男・順之助は、「夕日と拳銃」や「闘神」のモデルとなった伊達順之助
である。1907年に56歳で没する。

****************************************************************************
現在の伊達家当主は伊達泰宗さんです。
author : とらすけ | 17:24 | - | - |

▼ 源義経 人物(鎌倉御家人続編)
[ 日本史 ]
大河ドラマ義経も上洛直前まで話がすすんできた。
そして、鎌倉御家人も何人かカギとなる人物が出て
きているので、自分のブログ検索リストもほとんど
北条氏か源氏・藤原氏、梶原氏とか占めているので
ここで続編を編集することにした。
(一部分は前作を移植している)

 鎌倉御家人

梶原景時  1140−1200

桓武平氏の流れを組んでおり、正式には『平景時』と呼ばれていた。
武士としては教養も深く、武家百人一首にも彼の和歌が選出されている。
石橋山の戦いでは平氏側として大庭景親と共に頼朝軍と戦い戦勝するが、
大庭とは仲が良くない部分と、平家の治世に見限りをつけていたので源氏の
嫡流である頼朝を逃す事により今後の縁を築こうと図った。
結果としては頼朝が関東平定に成功した事で景時の地位もぐんと向上した。


頼朝に登用されてからは他の御家人を監視、粛清する役目が多く、特に
目立つのは房総半島で2万騎をもって頼朝に参陣した上総広常を謀殺、
幕府発足後には頼朝異母弟・範頼を謹慎先の伊豆修善寺にて謀殺した。


平家追討の折には軍監として参陣。この時に戦術の意見違いで義経と反目。
これを鎌倉に讒言した事により、頼朝と義経兄弟の仲が修復不可能と言われ
ている。
事実この件も関係あるのだが、本当の兄弟仲違いの理由は後白河法皇に
よる人臣操縦力のしたたかさである。
頼朝は義経上洛事前に朝廷に鎌倉武士への直接任官を断っており、それを
逆手に取った後白河法皇が義経に半ば強制的に検非違使に任官した事が
兄弟反目の理由となっている。
(20歳後半の青年が法皇の目の前で任官拒否は普通出来ないよなぁ…)


このように人々をおとしめていった彼自身にも不幸が訪れる…
頼朝が亡くなり、2代頼家の補佐役となった。
そこでも頼朝の威光を盾として轟然と振舞うが、1199年に結城朝光を頼家に
讒訴するが、日頃から景時を良く思わなかった三浦義村・和田義盛をはじめ
鎌倉御家人66人の署名により、景時鎌倉追放が決定された。
そして鎌倉を追放された景時は駿河国付近で北条義時の差し向けた刺客に
よって斬殺された。


梶原景季 1162−1200

景時の嫡男。
武勇では弓が優れており、鎌倉武士の中でも指折り数えるほどの使い手だった。
とくに有名な話では木曽義仲追討戦での宇治川先陣争い。


景季は頼朝から名馬「磨墨」を与えられ、佐々木4兄弟の末子・高綱は「生月」を
与えられていることから、この2人は頼朝から信頼を得ている武士と思われる。
いざ宇治川を渡る先陣争いの場では、最初は景季が優勢だったが途中で高綱が
「梶原殿、馬の腹帯が緩んでますぞ。それでは敵陣に着く頃に外れる恐れがあり
もうそう。」と、景季に馬具の修正をさせている合間に出し抜いて高綱が先陣
一番乗りを果たしたのは有名。
(自分の高校時代の友人は景季の子孫でこの話をとても悔しがってました)


その後も平家追討戦で戦いを重ねて行き、中でも一の谷の戦いでは箙に梅の花を
挿して奮戦する姿には雅さが表され、敵味方から問わず賛辞の声が出た。


鎌倉幕府発足後は地位を得ていたが、父・景時が御家人66人連判状をつき
つけられて失脚したのと同時に景季も失脚。
一度は鎌倉・梶原の地に戻っていたが甲斐源氏・武田有義を将軍にと各策する
景時とともに上洛したが、北条氏の討手により三河国付近で斬死した。


この時、梶原一族は滅亡したと思われたが景時次男の子供が鎌倉幕府に復帰して
仕え、景時三男の子孫は三河付近で明治維新を迎えたといわれている。



和田義盛   1147−1213

三浦一族の出身なので平氏である。『平義盛』が本名。
頼朝挙兵から参陣しており、武勇豪胆強力の持ち主といわれており、関東平定
の後には軍務を束ねる侍所別当(長官)を任じられた。
平家追討・奥州討伐でも軍功を挙げている。
頼朝死後は2代将軍頼家を見限り北条氏につくが、義盛の武力と勢力拡大を
恐れた北条氏は逆に義盛が謀反するよう挑発して戦を勃発させた。
和田合戦といわれるこの戦、最初は和田氏が優勢だったのたが、和田氏の
本家筋である三浦氏が北条氏に傾いたので義盛はじめ和田一族は敗死した。

この後、侍所は執権が兼務することになり北条氏は文武両方で最高職位を
世襲していくことになった。


佐々木4兄弟

長男・定綱  1142−1205

近江・佐々木庄の出身。平治の乱で源義朝に従った父・秀義が関東に敗走し
たので共に関東に移り住んだ。
以仁王の令旨をうけて挙兵した頼朝に従い参陣。富士川の戦いの論功で近江の
本領安堵される。
その後も戦歴を積み重ねて近江、長門、石見、隠岐の守護職を歴任。
1191年には本領・佐々木で延暦寺と諍いを起こし刃傷事件になり、薩摩国に
流刑されたが、1192年に赦免され近江守護職に復職した。
その後も幕府で重きをなし、従五位下左衛門尉に任官。1205年に亡くなった。


次男・経高  ????−1221

近江・佐々木庄の出身。平治の乱で源義朝に従った父・秀義が関東に敗走し
たので共に関東に移り住んだ。
以仁王の令旨をうけて挙兵した頼朝に従い参陣。富士川の戦いの論功で近江の
本領安堵される。
その後も戦歴を積み重ねて淡路、阿波、土佐三ヶ国の守護職に任じられた。

源氏の将軍が途絶えて承久の変が勃発。経高は後鳥羽上皇の官軍に属したので
敗戦。北条泰時の目前で自害して果てた。


三男・盛綱  生没年不詳

1166年あたりに頼朝に仕えたと言われている。
平家追討作戦では源範頼に従っていた。
藤戸海峡合戦の折には漁師・与助から敵陣に渡りやすい浅瀬を教えてもらうが
その逆に敵からの襲撃もあると恐れて与助を船の上で切り殺してしまう。
そして盛綱は浅瀬を馬で渡り先陣して敵を敗走させた。
そのことを知った与助の母親はとても悲しみそして盛綱を憎み「佐々木といえば
笹まで憎い」と山の中の笹の葉をすべて毟り取って悲嘆のうちに亡くなるという
笹無山の日本悲話は有名。
後日、備前児島を賜った盛綱は戦功に高く貢献した与助の供養の為に大法要を
行なった。


四男・高綱  1160−1214

当初は京に住んでいたが、頼朝挙兵の際には兄達とともに参陣した。
平家追討戦を歴戦し、梶原景季との宇治川先陣争いは有名。景季が頼朝から
名馬「磨墨」を与えられたのを見て、高綱も頼朝に名馬を所望して「生月」を
授けられた。その手前もあるので宇治川先陣は景季に負けられない気持ちが
強まって「腹帯事件」をおこしたのであると推測される。
(景季の揺るんだ腹帯・・・高綱が刀でキズをつけて緩めた説もあるので)

その後は長門、備前の守護へと任ぜられるが1195年に家督を息子に譲り
高綱は出家して諸国を巡り歩いた。 


三浦義澄  1127−1200

相模国三浦の豪族・三浦義明の次男。義明の娘は源義朝の子供・義平がいる
ので源氏とは縁が強い。
1160年の平治の乱では源義平に従い上洛したが、敗戦したので相模に
戻った。
頼朝挙兵の折に参陣しようとしたが、大雨で軍隊が進まないうえに三浦に
戻る事も出来なくなり、父・義明は篭城戦で討ち死にした。
その後も一の谷・壇ノ浦・奥州征伐と参陣して武功を挙げ、鎌倉御家人の
重鎮となり、頼朝死後は13人の合議制の一人となるが梶原景時討伐直後に
病で亡くなった。


三浦義村  ????−1239

三浦義澄の嫡男。父と共に鎌倉幕府発足の重要人物となる。
しかしかなり腹黒い人物なので…自分は好かない。

<御家人粛清>
梶原追討や畠山重忠追討で中心的人物となった。

<和田合戦>
北条氏の勢いに歯止めをかけたい和田義盛と共に打倒北条を各策したが
土壇場で和田義盛を裏切り北条方についた。
一度は優位だった和田一族も義村の裏切り行為で全滅。

<将軍暗殺>
3代将軍実朝暗殺事件では、犯人の公暁が乳母夫である義村に救いを求めて
きたが、義村は謀殺した。
このことから実朝暗殺事件の黒幕は北条義時と三浦義村といわれている。

<承久の変>
後鳥羽上皇の近臣だった弟・胤義から鎌倉幕府打倒の決起を促されたが義村は
北条義時に知らせ、鎌倉軍の将として弟と対陣し撃破した。

<執権後継者争い>
義時変死後に義時の弟・政村と義時嫡男・泰時の争いでは政村方から誘われたが
北条政子の薦めで泰時の執権就任に尽力し、後日には御成敗式目制定に携わった。




author : とらすけ | 10:37 | comments(2) | trackbacks(0) |

▼ 甲斐源氏の興亡(源義経関連番外編)
[ 日本史 ]
義経関連ブログに多数のアクセス感謝感激m(_ _)m
中でも源氏一族に関心を示す方々が多いね!?

ご要望の甲斐武田一族の始まりから滅亡までの系譜。
(独学のため不備・誤りあるのであしからず…)

 源氏全体略系図はこちら


 甲斐武田一族の始まり

源頼義−義家(八幡太郎)・・・頼朝・義経など河内源氏の流れ
    |             三男・義国は足利氏・新田氏の祖
    |
    −義綱(加茂次郎)・・・義家四男・義忠暗殺容疑により一族斬殺
    |
    −義光(新羅三郎)・・・佐竹氏・武田氏の祖
      ↓
     義清(甲斐源氏2代目棟梁)
      ↓
     清光(甲斐源氏3代目棟梁)
      ↓
     信義(武田氏祖)・・・清光の次男。武田八幡神社にて元服したのと
                 所領が甲斐・武田荘を与えられたので武田太郎
                 信義と名乗る。 甲斐源氏4代目棟梁になる。

    以仁王の令旨で弟の安田義定・長男の一条忠頼ら甲斐源氏を結束させ
    挙兵する。富士川の戦いでは頼朝への参陣が遅れたため、名誉挽回に
    平家陣幕に夜襲を試みるが、川岸の葦で寝ていた水鳥を起こしてしまい、
    驚いて羽ばたかせてしまう。それが平家軍遁走のきっかけとなった。
    その後は頼朝より駿河守護に任じられた。
    だが、甲斐源氏の武勇と結束力を恐れた頼朝に猜疑心を与えてしまい、
    信義は『子々孫々まで頼朝に対して弓はひかない。』と起請文を書き差し
    出したが、1184年長男の一条忠頼は鎌倉で宴席に招かれて暗殺されて
    しまう。 
    頼朝に信じられてもらえず、駿河守護まで解任されて失意のうち翌年病没。
    家督は5男・石和信光が継ぐことになった。
    その後、頼朝の直系が滅びて行くのに対し、信義の家系は広がっていく。
    若狭武田氏・安芸武田氏と全国に勢力を拡大していった。後年、秀吉の
    時代に出てくる法衣の宰相・安国寺恵瓊は安芸武田一族である。

    弓道の流派にある武田流は信義がはじまりらしい。


武田氏 略系図

信義−忠頼(一条氏)
   |
   −信光−信政−信時−時綱−時宗−信武−信成−信春−信満−信重−*
                             |
                             −氏信(安芸武田氏)

*−信守−信昌−信縄−信虎−晴信−義信
                       |
                       −勝頼−信勝


 戦国時代の武田氏

15代当主・信守に治世能力が乏しく、家臣の跡部氏に政権を奪われていた。
だが、16代当主・信昌は若年ながら諏訪氏の援助を受けて跡部氏を追放し、
応仁の乱では信濃豪族に攻めこまれたが家臣を結束して撃退に成功。
甲斐での勢力を安定化に力を注いだ。

だが、信昌は家督を長男・信縄に継がせた後に、次男・信恵に継がせたい
気持ちが出て、一族内紛のきっかけを作ってしまう。その渦中に信昌が病没。
17代・信縄も病弱のだったのか…父の後を追うように病没してしまった。
信縄の長男・信虎が13歳で18代当主を継ぐと叔父・信恵を倒して一族内紛を
終結させた。その猛将ぶりから『甲斐の虎』とよばれた。

そして信虎は今までの武田氏の本拠地だった石和から甲府・躑躅ヶ崎に移し、
都留郡の国人・小山田氏と結束を固めて駿河の大国・今川氏の侵攻を阻止した。
その後も駿河の今川氏・相模の北条氏・信濃の諏訪氏など大国相手に戦いを
続けていった。このままでは埒があかないと、まず今川氏と姻戚関係を結んで
和睦。長女(信玄の姉)を今川義元の嫁として送り出した。
次に諏訪氏にも娘(信玄の妹)を当主・頼重の嫁として姻戚関係で和睦した。
また、嫡男・晴信とは相性悪く、次男・信繁を家督に継がそうと画策していく。
それは今川義元の協力を得て、晴信を駿河に追放する計画だった。

後年になって信虎は残虐性が物凄かった。
諫言した家臣にはすぐに切り殺す。居合抜きのごとく…
集落の妊婦に対しては生きたまま腹を切り裂いて胎児を取り出す…
(それも妊娠月別に妊婦を探し出して切り裂いていく…)
このままでは、甲斐の国は危ういと悟った晴信は父・信虎の追放を決める。
小県出兵の折に側近・板垣信方と計画して弟・信繁に打ち明ける。
兄思いの信繁はこれに賛同し、家臣団も一致団結した。
そしてクーデターは成功し、駿河から晴信を迎えに来た兵隊に信虎を
連れていかせた。


   −定恵院−今川氏真
   |(今川義元夫人)
   |
   −南松院−穴山信君
   |(穴山信友夫人)
   |
信虎−晴信−義信
   |   |
   |   −勝頼−信勝
   |
   −信繁−信豊
   |
   −禰々姫−諏訪寅王丸
   |(諏訪頼重夫人)
   |
   −信廉
   |
   −信実・・・・・・・・・・・・・・・・徳川時代旗本で命脈繋ぐ
   |
   −信友



一度は掴み掛けた天下人の座
  

19代当主となった晴信は信濃・諏訪氏を滅ぼし、村上氏・小笠原氏など信濃の
豪族を滅ぼして行き、ほぼ信濃を掌中に収める。
そして今川・北条と三国同盟を結び、越後の長尾(上杉)氏との北信濃の領地
紛争に専念した。

三国同盟の内訳
武田晴信娘→北条氏政の正室に
北条氏康娘→今川氏真の正室に
今川義元娘→武田義信正室に

第3次川中島の戦いでは長男・義信の命令違反で多数の家臣を失ってしまい、
晴信と義信の距離が開いてしまう…

その後、織田信長によって今川義元が戦死。駿河・遠江・三河の三国を徳川家康と
分け合う形に侵攻していき、その侵攻に真っ向から反対した長男・義信を謹慎し
自殺に追い込んだ。
三国同盟を反故にしたと北条から非難され対立。圧倒的戦力で小田原まで侵攻し
和平を結ばせた。

4男・勝頼と織田信長養女の間に誕生した信勝を20代当主に任じた。
勝頼は諏訪氏を継いでいたので、信勝が成人するまでの陣代(後見人)となる。

そして京の都を目指す西上作戦中に夢叶わず病没。軍隊も帰国した。
信玄の治世力・財政力・軍事力はこの時代では素晴らしく、信玄の定めた信玄法度は
後に徳川幕府の手本となり、軍事力は武田氏滅亡後に生き残りの家臣を取り入れて
兵力を向上させた。(井伊の赤備えは武田軍の流れをくむ)


 そして滅亡の道へ…


当主・信勝は生まれて間も無いので勝頼が当主の代わりを執務する。
だが、この時点で一族の離反が始まりつつもあった。
特に信玄の婿である穴山信君は諏訪氏からきた勝頼を快く思わなかった。
信君自身も武田一族であるからだ。いや、むしろ信君の方が血筋の上では勝頼よりも
武田氏に近い。信君の数代前から武田宗家と穴山家は縁続きであり、信君の母は
信玄の姉であり、信君の嫁は信玄の娘だった。
(穴山家は代々武田姓と武田家紋の使用を認められている親族衆筆頭)

信玄を超えようと努力する勝頼は連戦に連戦を重ねていき、ついには父・信玄よりも
勢力を拡大することに成功した。だが、この政策に対して内政基盤の固めを先にと
保守的な信玄在世の家臣と、独自拡大策を突き進める勝頼に従う側近との対立が
深まり出していく。

この対立が決定的な悲劇を招いたのが1575年長篠の戦。
前年に徳川家康方に離反した奥平信昌を倒すべく長篠城に侵攻した勝頼だが、
城はなかなか落城しない。そんな渦中に織田信長の援軍も加わり、連合軍は
約35000人。一つの城を落とすだけのつもりで進軍してきた武田軍は15000人。
信玄重代の家臣は撤退策を進言するが、跡部勝質ら勝頼側近らは敵に後を向けては
末代までの恥辱と勝頼に交戦を進言する。
勝頼は『御旗盾無』の言葉を出し進軍を指示。『御旗盾無』の言葉が出てしまっては
もはや覆す事は出来ないので、信玄時代の重臣だった馬場・山県・内藤といった
歴戦の将は死ぬ覚悟で突進して織田・徳川の鉄砲隊によって散っていった。
この時、武田軍は約10000人戦死したという。

1577年、勝頼は越後の上杉氏と和睦を結ぶ。
しかし謙信は病死してしまい、上杉氏後継者争いが勃発。勝頼は景勝を支持したため
北条氏から養子にきていた景虎は争いに敗れ殺された。
このことが北条氏との同盟破棄となり、西に織田・南に徳川・東に北条と窮地に…
そして1581年、南端にあった高天神城が徳川氏に攻められ、城は勝頼に援軍を
乞うたが、勝頼は援軍をおくらなかった。そして落城…この事が勝頼と家臣との心の
開きとなっていく…

1582年、窮地に追い込まれた勝頼は防御能力に乏しい躑躅ヶ崎館を出て新府城を
築城する計画を出し実行する。それが多大な軍資金として国人達に要求したので国人
達も勝頼を見限りだした。
同年2月、信玄娘婿の木曾義昌が謀反。激怒した勝頼は2万人の大軍で木曾討伐を
行なうが、木曾義昌に救援を求められた織田信長が進軍開始。南からは徳川軍が、
東からは北条軍が同調して攻めこんできた。
木曾征伐軍が敗退したのと同時に穴山信君(梅雪)も徳川方についてしまう。
武田親族筆頭の穴山氏が謀反したのと同時に家臣は勝頼から離れて行った。

同年3月。これに救いの手を差し出した真田氏と小山田氏だが、勝頼は外様の真田
氏よりも一門に近い小山田氏の元へ向かうが、小山田信茂は既に信長方に翻ってお
り、勝頼一行を笹子峠で襲撃してしまう。
逃げ場を失った勝頼は天目山に追い詰められ、当主信勝・北条夫人と自害して果て
た。
この時、勝頼37歳、信勝16歳、北条夫人19歳…


武田信玄
  供檗 −太郎義信
三条夫人 |
       −黄梅院(北条氏政夫人)
       |
       −次郎信親(龍宝)・・・・・・・・・・・・・・江戸時代徳川幕府高家で命脈繋ぐ
       |
       −三郎信之
       |
       −見性院(穴山梅雪夫人)



武田信玄
  供檗檗飮溶詐〕蝓檗歛析鎖勝(甲斐武田氏20代目当主)
諏訪夫人



武田信玄
  供檗檗欷渭裟洪(仁科氏)
油川夫人|
      −葛山信貞
      |
      −菊姫(上杉景勝夫人)
      |
      −松姫(織田信忠婚約者)


他に7男信清・三女真理姫(木曾義昌夫人)



 滅亡直前に家督相続

武田太郎信勝は1576年に諏訪四郎勝頼の長男、そして武田信玄の嫡孫
として誕生した。信玄は事の他信勝の誕生を喜び、生まれて間も無いうちに
信勝の名乗りと武田家20代目の家督相続を決めてしまった。

しかし、彼が16歳で家督を継ぐ年は武田家は滅亡直前。さらに信勝が御旗
盾無の前で正式に家督相続したのは逃避行中の天目山だった。
勝頼はここから武蔵を経て奥州にて再起をと信勝に勧めるが、信勝はこれ
以上恥の上塗りはしたくないと、頑として聞かず父・勝頼と共に自刃した。



 滅亡…悲劇の北条夫人

勝頼最初の夫人は織田信長養女で遠山氏の娘だったが、長男信勝を生んで
間も無く亡くなってしまう。(17歳)

そして時は流れ…

織田・徳川連合軍に大敗した勝頼は甲相同盟の必要性を痛感し、北条氏政に
和議を申し出た。氏政としても武田とは和しておきたい間柄なので、勝頼夫人
として氏政の妹を差し出した。
この時、勝頼32歳、姫は14歳だった。
気高く美しい姫だったと恵林寺の記録にも残っている。

さらに時は少し流れ…

勝頼は上杉家内乱の折に北条の要請で景虎に援軍を送るはずが、景勝の
示した好条件(上野国の領土献上・勝頼妹を景勝の正夫人に迎える)に
興味をだし、景虎を見放してしまう。そして景虎は殺された。

これで北条家との同盟も破談となり、甲斐は東西南と大敵を作ってしまった。
そんな中でも北条夫人は勝頼の勝ち戦を祈願して武田一族の氏神・武田八幡宮
に直筆の願文を出すほど夫・勝頼に尽くした。

しかし…勢い付いた時勢に武田家は歯向かえなかった。
一族の裏切り・家臣の離散・そしてとどめの裏切り…
勝頼一行は50人足らずになってしまい、天目山に追い詰められてしまう。

もはやこれまで…
勝頼は夫人に北条家に戻るよう諭すが、夫人は勝頼に従う事を望み故郷小田原の
見える山裾で19歳の生涯を閉じた。

  黒髪の乱れたる世ぞはてしなき

   思いに消ゆる露の玉の緒


これが彼女の辞世の句である。


現在、勝頼・信勝・北条夫人の墓は3つ並んで静かに眠っている…
author : とらすけ | 23:27 | comments(4) | trackbacks(0) |

▼ 源義経 人物(北条氏と鎌倉御家人編)
[ 日本史 ]
ラストは鎌倉幕府の人物にスポットをあてる。


北条政子 1157−1225

伊豆の豪族・北条時政の長女。同母兄に宗時。
異母弟に義時・時房。姉妹は政子を長女に3人。
伊豆に流刑された頼朝と知り合い恋仲になる。


その時の話にこんな事があったそうな
当初、頼朝は北条時政の2番目の姫に好意を抱いていた。
ある日、頼朝は使者に北条の姫に恋文を渡すように依頼したが、使者が
『どの姫にお渡ししますか?』という問いに対し『一番綺麗な姫だ』と告げる。
その使者が一番と思ったのが政子であったので、恋文は意中の姫でなく
政子に伝わったという。


その頃には既に頼朝は伊東祐近の姫との間に男子をもうけており、そして
平家の監視役だった伊東祐親に追い出されて、男子は海に捨てられた過去が。
今度は当家かと、平家の目を恐れた時政は強引に伊豆目代・山木判官に政子
を嫁がせてしまう。
しかし、政子は目代屋敷を抜け出し頼朝のもとに帰ってきたので、時政も二人の
仲を認めざるをえなかった。
こうして頼朝は伊豆の北条氏の後ろ盾を得る事になった。


以仁王の令旨をうけてから頼朝と北条時政・宗時・義時らは伊豆目代屋敷を
襲撃して山木判官を討ち取る。(1180年)
その勢いで小田原の石橋山付近に布陣し、源氏にゆかりのある三浦一族の
参陣をまっていたが、連日の雨で三浦一族は足止めされてしまい、頼朝軍は
300騎で3000騎近い平家方の大庭景親と伊東祐親・梶原景時らの軍と
戦い敗北する。
この時、政子は1178年に生まれた長女・大姫とともに伊豆・走湯山の尼寺に
身を寄せており、夫や父・兄弟の安否を祈るばかりだった。
(政子の良き理解者だった同母兄・宗時は戦死してしまう)


梶原景時の手引きで九死に一生を得た頼朝は真鶴から走水に渡り、三浦一族
と合流して浦賀水道から房総半島に渡って、千葉一族をはじめとした坂東武者の
集結に成功し、2万騎近い軍隊を得る事ができた。
時政・義時父子は信州に逃げ延びてから甲斐源氏・武田氏・一条氏の協力を得て
再起を図っていた。


大軍を率いて鎌倉に凱旋した頼朝はここに居を構え、平家追討にあたる。そして
妻・政子を御台所として迎え入れた。
平家追討軍は範頼・義経兄弟に軍隊を預けてあたらせ、頼朝は鎌倉での政治
体制の確立に力を注ぐ。
1182年に長男・頼家、1185年に次女・乙姫、1192年には次男・実朝と、
子宝
に恵まれた。


1192年に頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府体制を整えていくのて同時に、
政子自身も北条一族の勢力拡大を行なう。
また、1195年には長女・大姫の後鳥羽天皇入内を図るために頼朝と上洛し、
後白河法皇の寵を得ていた丹後局と会談するが、大姫が亡くなり立ち消えになった。


1199年に頼朝が逝去し、嫡男・頼家が2代将軍になるが乳母であり、婚家でもあ

比企一族の力が強大になるのを防ぐため、将軍親裁権を13人の合議制に移行する。
1203年に頼家が重病になり、北条時政はある意味クーデターを起こす。
後継者として頼家の長男・一幡には関東地方28国を、弟・千幡(実朝)には西国3
8国
に地頭職を分割相続させた。
これに不満を持った頼家は病状回復後益々比企一族に身を寄せて行き、舅・比企能員
と共に北条一族を滅ぼす計画を練った。
これを憂えた政子は父や弟と謀議して、まず頼家の舅にあたる比企能員を謀殺。
そして比企一族の屋形を一気に襲撃してこれを全滅してしまう。
その時に頼家の妻・若狭局や幼い子供達(一幡と姫たち)も殺害された。
母の仕打ちに怯えた頼家は伊豆・修善寺に出家させられたうえ翌年暗殺された。


そして政子は一人残った子供実朝に愛情を注ぐ。(この時には乙姫も亡くなってい
た)
実朝は乳母も北条氏なので頼家のような事態にはならない。
だが、今度は父・時政が愛妾の牧の方の娘婿にあたる平賀朝雅を次期将軍にと画策。
これに対抗する為、政子は弟・義時と組み、時政と牧の方の一派を追放した。
後年、実朝は右大臣就任の時、鶴岡八幡宮の石段で頼家の次男・公暁に暗殺された。


自分の子供を全て失った政子は夫の築き上げた鎌倉幕府を維持する事に生き甲斐を
求め、後鳥羽天皇の幕府追討に対しては御家人の結束を訴える言葉はあまりにも有
名。
それにより尼将軍という称号も自然とついたようだ。


                 余談

頼朝の浮気には断固として許さない態度を示している事実も…

                  1.

頼家懐妊中に頼朝は以前から親交のある亀の前のもとにしばしば訪れた。
そして頼家出産後に彼女の存在を知った政子は激怒し、家臣に命じて
亀の前の住む屋敷を壊させた。
難なく逃れた亀の前はすっかり怯えてしまう。
またこれを知った頼朝は激怒し、屋敷を破壊した政子の家臣の髻を切り落とした。
反対に政子は亀の前を屋敷に匿った頼朝の家臣を他国に追放してしまった。


                  2.

頼朝と愛妾の間に男子が生まれた。
これを匿っていた家臣は政子にばれて逃げ出してしまう。
頼朝はなんとか鎌倉に戻そうとしたが政子の怒りは消えなかった。
そして根競べに負けた頼朝は伊勢の国に住ませるという事でこの件を手打ちにした。



             −大姫  −一幡
源義朝− 頼朝   |     |
        II−−−−頼家−-−公暁
北条時政−政子   |     |
             −乙姫  −姫3人
             |
             −実朝



北条時政 1138−1215

高望流平氏の一族。系統的には伊勢平氏に次ぐ大きな一門。しかし周囲の大庭や
伊東などに勢力をおさえられていった。
戦歴から保元の乱で鎮西八郎為朝とも戦った記録もある。


当初は頼朝と政子の仲には反対していたが、時流を見極めて行くうちに認め後見役
となる。そして鎌倉に滞在し頼朝の幕府体制確立の補佐役として、特に外交面や
朝廷との駆け引きなどで重きをなした。
義経追討の時は頼朝の代官として京に出陣。義経に組する朝廷貴族達の追捕に
専念した。
後白河法皇は義経の時と同様に自ら時政に官位を与えるが、時政はこれを固辞。
あくまでも頼朝の意向がない限り任官しない態度をしめした。
ここが義経と時政の政治力の差が出ている。


奥州征伐後、時政の地位は着々と地盤を固めていき不動のものになる。
そして頼朝死後は頼家の後見役としてさらに権力を強化。反北条色の強い御家人を
次々と粛清していく。
特に頼朝の威光を盾にしていた梶原景時の追放・比企一族の虐殺は哀れに近い。
畠山一族に関しては叛意がないのに一層されてしまう。


だが、時政自身も最後は娘・政子と息子・義時に将軍・実朝に対して叛意ありとして
執権職を解かれ、後妻の牧の方とともに追放されて隠棲の地で生涯を閉じた。



                          (北条)
平高望−国香−貞盛−−維将・・・・直方−時家−時方−時政−−宗時
              |                       |
              |                        −政子
               −維衡・・・(清盛につながる)       | 
                                        −義時 
                                       |                       
                                        −姫(源全成妻)
                           |
                                       −姫(足利義康妻)
                                       |
                                       −時房 


北条宗時…時政の嫡男。
       流人時代の頼朝に早くから支持を表明している。
       頼朝挙兵の折、率先して兵を率い伊豆の若武者達の指揮官となるが
       石橋山の戦いで戦死した。


北条義時 1163−1224

時政の次男。宗時・政子とは異母弟になる。
武将というより政治官僚色が強く、大江広元とともに鎌倉幕府体制作りに貢献した。
軍事面では頼朝が出陣する戦には必ず参加しており、頼朝の懐刀的な存在感がある。


頼朝死後は2代将軍頼家から将軍親政を合議制に移すなどして執権の力を強めて行
く。
時政失職後も和田義盛を排斥して軍事面の最高職も掌中に収めて北条一族の力を
更に強大にしていった。


実朝暗殺後は摂関家より公家将軍として九条頼経を迎え入れて将軍職を傀儡化した。
この将軍傀儡化の為に、実朝暗殺計画は義時が黒幕とされている。
その後、朝廷との対立が深まり幕府は危機を迎えたが姉・政子や大江広元の助けも
あって、嫡子泰時を総大将として承久の乱も勝利で収める事ができた。


晩年は不幸であり、後妻・伊賀の方と仲違いして毒殺されたという経緯もある・・・。
義時の流れが北条嫡流となり、義時の別称・得宗から北条得宗家とよばれた。
そして得宗家は幕府内でも、北条一族の中でも絶大な権力を保つことになる。
得宗家とは異なる系統の家の人間が執権になっても、絶対的な権力は得宗家が
維持していた。


   北条得宗家(得宗)

 得宗継承順 義時→泰時→経時→時頼→時宗→貞時→高時


時政−義時−−泰時−時氏−−経時
        |         |
        |         −時頼−時宗−貞時−高時
        −朝時(名越)
        |
        −重時(赤橋)
        |
        −政村
        |
        −実泰(金沢)
        |
        −有時(伊具)



鎌倉有力御家人


梶原景時  1140−1200

桓武平氏の流れを組んでおり、正式には『平景時』と呼ばれていた。
武士としては教養も深く、武家百人一首にも彼の和歌が選出されている。
石橋山の戦いでは平氏側として大庭景親と共に頼朝軍と戦い戦勝するが、
大庭とは仲が良くない部分と、平家の治世に見限りをつけていたので源氏の
嫡流である頼朝を逃す事により今後の縁を築こうと図った。
結果としては頼朝が関東平定に成功した事で景時の地位もぐんと向上した。


頼朝に登用されてからは他の御家人を監視、粛清する役目が多く、特に
目立つのは房総半島で2万騎をもって頼朝に参陣した上総広常を謀殺、
幕府発足後には頼朝異母弟・範頼を謹慎先の伊豆修善寺にて謀殺した。


平家追討の折には軍監として参陣。この時に戦術の意見違いで義経と反目。
これを鎌倉に讒言した事により、頼朝と義経兄弟の仲が修復不可能と言われ
ている。
事実この件も関係あるのだが、本当の兄弟仲違いの理由は後白河法皇に
よる人臣操縦力のしたたかさである。
頼朝は義経上洛事前に朝廷に鎌倉武士への直接任官を断っており、それを
逆手に取った後白河法皇が義経に半ば強制的に検非違使に任官した事が
兄弟反目の理由となっている。
(20歳後半の青年が法皇の目の前で任官拒否は普通出来ないよなぁ…)


このように人々をおとしめていった彼自身にも不幸が訪れる…
頼朝が亡くなり、2代頼家の補佐役となった。
そこでも頼朝の威光を盾として轟然と振舞うが、1199年に結城朝光を頼家に
讒訴するが、日頃から景時を良く思わなかった三浦義村・和田義盛をはじめ
鎌倉御家人66人の署名により、景時鎌倉追放が決定された。
そして鎌倉を追放された景時は駿河国付近で北条義時の差し向けた刺客に
よって斬殺された。



和田義盛   1147−1213

三浦一族の出身なので平氏である。『平義盛』が本名。
頼朝挙兵から参陣しており、武勇豪胆強力の持ち主といわれており、関東平定
の後には軍務を束ねる侍所別当(長官)を任じられた。
平家追討・奥州討伐でも軍功を挙げている。
頼朝死後は2代将軍頼家を見限り北条氏につくが、義盛の武力と勢力拡大を
恐れた北条氏は逆に義盛が謀反するよう挑発して戦を勃発させた。
和田合戦といわれるこの戦、最初は和田氏が優勢だったのたが、和田氏の
本家筋である三浦氏が北条氏に傾いたので義盛はじめ和田一族は敗死した。

この後、侍所は執権が兼務することになり北条氏は文武両方で最高職位を
世襲していくことになった。

(うちのすぐ近所に和田義盛別館跡地があり、今は有名な旅館になっている)



源頼朝の子供たち


長女・大姫 1178−1197

頼朝が挙兵前に北条政子との間に生まれた。
木曽義仲の長男・義高との悲恋話『清水冠者物語』で有名。

1183年には木曽義仲の嫡男・義高と婚約。これは婚約を名目に義仲から
人質として義高を鎌倉に連れてきた。
しかし、翌年には義仲と対立し殲滅したので謀反の疑いをかけて義高を殺害
しようとしたが、危機を知った幼い大姫が義高に告げて逃がす。
だが、義高は追っ手によって入間川付近で斬殺された。(義高は11歳)
この事を知った大姫は激しいショックをうけて精神的な病となり、父・頼朝には
一切心を開かなくなった。頼朝は大姫の嘆きを解きほぐすため討手の家臣を
処罰したが無駄だった。(この家臣も気の毒だ…)

その後、後鳥羽上皇への入内話もできたが、義高への恋慕が忘れられない
大姫は生涯精神的に病んで若くして死去してしまった。


長男・源頼家  1182−1204

頼朝が鎌倉に居を構えてから生まれた待望の男児。
正妻は若狭局。頼朝の乳母だった比企尼の息子・比企能員の娘。
頼朝死後に2代将軍となるが、頼朝の苦労を知らずに成長してきたため独裁的
政治を行ない、妻の実家である比企氏に肩入れして母方の北条氏を抑えこもう
としたため、母の政子に独裁権から合議制に移行された。
これを不満とした頼家は義父・比企能員と謀議して北条氏追討を計画したが
情報を先取りした北条時政が比企能員を法要と偽り誘い出して謀殺。その後は
比企屋形を襲撃して頼家妻子ともども比企一族を殺害した。
母・政子から出家隠居を命じられた頼家は修善寺に幽閉され、一年後に北条
義時の刺客に沐浴中に殺害された。


次男・源実朝 1192−1219

頼朝が征夷大将軍として鎌倉幕府を発足した時にうまれた。
乳母は政子の妹だったので、幼少時期の大半は北条氏の中で成長していった。
その部分が兄・頼家との違いであり、政子も特に愛情を注いでいたとみられる。
1203年に兄の後に将軍となったが、幼少のため政務は祖父・時政や叔父の
義時たちが任務していた。
そのため、武力・政治力にも乏しくなり、実朝自身も公家生活の雅な生活に身を
ゆだねていき、和歌・蹴鞠を楽しんだ。
特に和歌は秀逸しており、万葉調の和歌集『金槐和歌集』を残した。


一度は異国への渡航を募らせて大船を作らせたが座礁したため断念した。
(真偽定かではないが…北条氏が妨害工作したともいわれている)


1219年に右大臣昇進祝いと年賀を兼ねて鶴岡八幡宮を参拝したときに、兄の
次男・公暁に暗殺された。
この時、義時が供奉していたが途中で気分悪くなり早退しているので実朝暗殺
黒幕とも言われている。


一方、実朝の首を持参した公暁は三浦義村の屋敷に駆け込むが、義村に
殺害された。(この時、公暁は19歳)


義家以来、血で血を洗う一族対立を続けてきた河内源氏。
兄弟をことごとく粛清していった頼朝…
これで河内源氏嫡流は完全に絶えてしまった…。
源氏の嫡流は新田氏・足利氏とつながることになる。


河内源氏嫡流


経基−頼信−頼義−義家−義親−為義−義朝−−頼家
                              |
                               −実朝
author : とらすけ | 23:50 | comments(12) | trackbacks(0) |

▼ 源義経 人物(奥州藤原一族と家臣編)
[ 日本史 ]
今回は義経にとって第二の故郷ともなる奥州・平泉の

人物についてピックアップ。

実際の史実と大河ドラマでの活躍ぶりを比較するのも

おもしろうござるよ。


奥州藤原氏

京の都から関東に住み付いた藤原一門の流れをくんでいる。


藤原秀郷・・・・・略・・・・・頼遠−経清−清衡−家清
                          |
                          −基衡−秀衡*
      −国衡
*秀衡−|
      −泰衡−時衡
     |
      −忠衡
     |
      −通衡
     |
      −頼衡



藤原秀衡…奥州藤原氏三代目。鎮守府将軍。
       彼の時代には奥州平泉は京の朝廷とは別の国のような
       繁栄があった。
       その勢力は北は津軽まで、南は白河付近まであった。
       彼の前では陸奥守・出羽守もほとんど傀儡に等しい。
       父・基衡の時代の陸奥守・藤原基成の娘を正妻とし、
       嫡男・泰衡と忠衡がうまれる。


       義父・基成の提案で源義朝の忘れ形見遮那王を平泉にて
       匿うことになるが、秀衡本人は反対していたという。
       河内源氏には前九年の役の折、源頼義によって曽祖父・
       経清を鋸斬殺されている過去もある。
       だが、義経の成長と共に彼の資質に惹かれる物を感じ、
       自分の子息にはない物を兼ね備えている義経に愛情を
       注ぐようになった。


       平家追討に参加したい義経を当初は引き止めたが、無理に
       止める事もできない事態になり、秀衡は佐藤継信・忠信兄弟
       以下80騎を義経に与えて送り出した。
       (無事黄瀬川にたどり着いた時は17騎になったとか…)
       中立の立場を取る以上、それ以上の兵力は出せなかった。


       後年、頼朝と不和になった義経を再び平泉に匿い、鎌倉方には
       義経を引き渡す事はしないが、一方で恭順する態度もみせている。
       しかし、鎌倉に絶大な政治権力を握った頼朝から『都に送る
       物資は鎌倉を通すよう』との圧力を加えられ、さすがの秀衡も
       これには断固拒否。
       義経を大将として奥州の兵士を増強し、鎌倉と互角に渡り歩く
       姿勢を示す中、秀衡は病没した。(55〜65歳)



藤原泰衡…兄に国衡がいるが、泰衡の母が前陸奥守の娘なので嫡男に。
       強靭な体力と武力が取り柄の庶兄・国衡とは仲が悪かった。
       父の存在が大き過ぎた為、ほとんど隠れた存在となる。


       1187年に父・秀衡が亡くなった後、家督を継ぐ。
       この辺りから鎌倉の義経引渡し要求がエスカレートしていき、
       泰衡自身も義経を匿うが、1189年には朝廷から義経追討令が
       届き、これに屈して義経を追討する。
       この時、対立した弟・忠衡も斬殺した。

   
       義経追討後、鎌倉に義経の首級を届けるが頼朝は朝廷に義経を
       匿った理由で奥州藤原氏追討令も申請する。しかし、朝廷はこれを
       却下した。
       頼朝は独自に奥州出兵を決意し、20万騎を従えて進撃開始。
       理由は無断で義経を討った事となっいてる。
       (鎌倉方としては生きて引き渡す事が要望だった)


       これに対抗して泰衡は庶兄・国衡を総大将として阿津賀志山に
       前線を張り、泰衡自身は国府多賀城にて帯陣。
       だが、戦慣れした坂東武者と平和の時代が長かった奥州武者では
       戦いにならず撃退される。国衡も戦死してしまった。
       泰衡は戦わずして平泉まで退却し、自ら屋形に火を放って北へ逃亡。
       しかし、家臣の河田次郎に刺されて落命した。(35歳前後)


       戦わずして逃げたとあるが、人的被害を最小限にしたいという泰衡の
       配慮もあっての事であり、河田次郎に刺されたのも自分の首が頼朝に
       届けば、落武者狩りも少なくなるだろうという考えもあった。
       (現に泰衡の身体は討手の河田次郎と一緒に祀られている。)

       結果的には事実人的被害は最小限になっており、泰衡の嫡男・時衡は
       斬罪されたが、他の一族は流罪で赦免されている。



藤原国衡…秀衡の庶長子。
       武勇の誉れ高い武将であり、長子でありながら庶子扱いされて不遇な
       生活を送っていた。
       年若い義経に武勇剣術と乗馬を鍛錬した人物ともされている。
       後年、平家追討での義経の活躍ぶりにかなり喜んでいたらしい。


       泰衡の義経追討策には断固反対しており、彼自身は追討に参加して
       いない。だが、時代の流れを読む力もあるので泰衡の行動には理解も
       示していた。
       頼朝軍の大軍と阿津賀志山にて対陣し、2万人で3日間戦いつづけたが
       善戦むなしく、和田義盛軍と畠山重忠軍に攻められて戦死した。

       年齢不詳だが、泰衡より5歳以上だといわれている。




藤原忠衡…秀衡の3男。 泰衡の同母弟。
       幼少の頃より義経と仲が良く、兄・泰衡の義経追討に断固反対する。
       追討の折に泰衡に斬殺された。(22〜30歳)



     ここからは義経家臣四天王とよばれた面々を紹介。


佐藤継信…奥州藤原氏家臣・佐藤基治の3男。
       現在の福島県飯坂付近の豪族らしい。

       義経出陣の時、秀衡の命で弟・忠信と家臣になった。
       常に義経のサポート役を果たし、屋島の戦いでは平家一番の猛将・
       平教経の矢から義経を守護するために身を挺し、矢に当たり戦死する。
       (27歳)


佐藤忠信…奥州藤原氏家臣・佐藤基治の4男。
       兄・継信と共に義経の家臣となり義経家臣四天王の一人になる。
       壇ノ浦まで戦い抜き、腰越での出来事の後は京都帰還後での鎌倉方の
       追っ手・土佐坊昌俊の奇襲を義経と共に撃退。
       その後は義経熊野潜伏の時、追っ手の北条時政の軍に斬りこんでいき
       義経一行の危機脱出を助けたが、彼は斬死してしまう。(25歳)



武蔵坊弁慶…熊野別当湛増の子。(と、いわれている)
         湛増の母は源為義の娘なので本当ならば義経とは血縁にあたる。
        幼名は鬼若と呼ばれかなりの悪童らしく、湛増によって比叡山に
        入れられた。しかしここでも乱暴すぎて追い出されてしまい、自ら剃髪し
        武蔵坊弁慶と名乗るようになる。
        その後は播磨国に行くがそこでも乱暴狼藉を働き、書写山の堂塔を
        炎上させた。

     
        都に戻った弁慶は五条大橋で太刀千本を集める願掛けを行ない、道行く
        人々の太刀を強引に奪って行った。そして千本目の太刀となる日に現れた
        のが牛若(遮那王)であり、身軽な立ち居振舞いに完敗。
        これまでの横暴非道を悔い改める約束で義経家臣として加わった。
        義経にとっては未知の国となる陸奥での生活・そして平家追討の進撃での
        弁慶の付き従いはとても力となった。
        

        頼朝と不和になり、京を追われて陸奥に落ち延びる折、途中の安宅関では
        見咎められる。弁慶は白紙の勧進帳を読み上げ、疑われた義経を自らの
        金剛杖で打ち据えた。守護・富樫氏は弁慶の嘘を見破りながら、その心情を
        思い、あえて騙されて義経一行は無事に関を越えて陸奥に辿り付く。


        秀衡死後、鎌倉や朝廷からの義経追討令により義経主従を匿えなくなった
        泰衡は、義経の住む衣川館に襲った。多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を
        守って堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて
        仁王立ちのまま亡くなった。

       (史実的には義経都落ちのあたりから弁慶の名前が出てくる)


       補足として熊野別当湛増について。

       彼の存在をなくして平家物語は語れないほどの重要人物である。
       まともに書くと凄く大変なので箇条書きにて。

       1.熊野に来た行家の持参する平家追討令旨を平清盛に密告した。

         湛増は熊野本宮、行家は新宮なので熊野同士の対立もあった。
         ドラマでも熊野に来た行家をエピソードに出していてが、令旨の
         存在が清盛に伝わる部分が省略されたのが残念である。


       2.1181年に熊野水軍を率いて平家方に宣戦した。

          時代の流れが源氏に傾くのを悟った湛増は平家に反乱した。


       3.1185年の壇ノ浦の戦いでは源氏方の水軍として平家を倒した。



伊勢三郎義盛…伊勢国の出身。義経が鞍馬山を出て平泉へ向かう途中でその
          家来となったとされる。
          屋島の戦いでは、義経の別働隊として少数精鋭の軍を率いて
          2000騎近い平家の大軍を降伏させた実力の持ち主。
          義経の都落ちの折、主従とはぐれてしまい鎌倉方の追捕に
          捕まり処刑された。(年齢不詳)

          (ドラマではどうなるかわかりません…)


ドラマに出ている他の家臣、駿河次郎とか喜三太は史実では不明です。
author : とらすけ | 01:59 | comments(8) | trackbacks(0) |

▼ 源義経 人物(平家一門編)
[ 日本史 ]
義経の話で欠かせない存在が平家一門。

ドラマにも何人か出ているのでそれらにピックアップ。

ただし、自分自身平家一門は学習していないので、源氏

一族よりかなり簡略な説明になる。(源氏贔屓だからさ)



桓武天皇の流れをくむ平氏

系統…桓武天皇の皇子で葛原親王の流れから2つの流れがあり、
    長子・高棟王の流れと、次子・高見王の流れがある。

高棟王の子孫は代々京の都に居を構えて公家となり、その子孫に
平清盛の妻となる時子と弟・時忠が出てくる。


高見王の流れは子の高望が平姓を名乗り上総介として関東地方に
住み付く。その子・国香や孫の将門の時代にはかなりの勢力を築き
あげていたと思われる。
高望の子から土肥・三浦・秩父・千葉・北条といった坂東平氏が
誕生し、各地に土着していった。
ただし、平氏一族による所領の争いで朝廷が乱を平定するために
源頼信・頼義親子を関東に送り込んだ後には河内源氏と東国の
藤原一族(奥州・藤原氏の祖先)に次第に勢力を奪われていった。


清盛の祖父・正盛の時代には伊勢付近や西国の勢力拡大に力を
注ぎ、伊勢平氏と呼ばれるようになった。
(平家とはこの伊勢平氏一門を指すらしい)

        −高棟王・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・略・・・・・・・・・・・・−時忠
       |                                     |−時子
       |                                     |−滋子
       |                                    (建春門院)
       |                                      *
葛原親王− −高見王−高望−国香−貞盛−維衡−(2代略)−正盛−忠盛−清盛
                  |       |             |
                  −良文    −維将(北条氏祖)   −忠正
                (坂東平氏祖)

************************************************************************

*
忠盛−清盛−重盛−維盛−六代(妙覚)
   |   |   |
   |   |    −資盛
    |    −基盛
   |   |
   |   −宗盛−清宗
   |   |
   |   −知盛−知章
   |   |
   |   −重衡
   |   |   
   |   −徳子(建礼門院)   
   |  
   −経盛−経正
   |   |
   |   −経俊
   |   |
   |   −敦盛
   |
   −教盛−通盛
   |   |
   |   −教経
   |
   −頼盛−為盛
   |
   −忠度



平清盛…伊勢平氏・平忠盛の長子として誕生。母は祇園女御。
      この祇園女御が鳥羽法皇より妻として授かったため、
      清盛は鳥羽法皇のご落胤とも伝えられている。

      
      家督相続後は一族相争う源氏とは異なり、一門の結集に
     力を注いで平家全盛の土台作りとなった。
     保元の乱では源義朝と組んで後白河天皇方につき、一門
     でも反発していた叔父・忠正を処罰した。
     一方の義朝は父をはじめ幼い弟まで全て斬罪を命じられた
     為、後白河天皇に離反しはじめる。
     一族の大半を失った源氏を追放する好機として、清盛は
     上皇となった後白河と画策して平治の乱を誘引する原因を
     作り、誘いに乗った義朝や反後白河一派の追討に成功した。


     後白河法皇の後ろ盾もあるが、清盛自身の政治力も卓抜して
    おり、平治の乱の後には昇進を重ね、権力を掌中におさめた。
    妻・時子の妹を後白河法皇に嫁がせて、生まれた皇子を皇太子
    とし、官位も武士では異例の従一位太政大臣まで昇りつめた。


     この時が平家全盛となり、一門はほとんど殿上人となり栄華を極めた。
    義弟・平大納言時忠の『平家にあらずんば人にあらず』発言は有名。
    たが、平家の専横が都の公家・庶民に反発をかいはじめる。
    

     一族が栄華を楽しむかたわら清盛は播磨・福原に港を築き、宋との
    交易に着手。そしていつしか福原遷都を夢にみはじめる。
    一門の流れをくむ皇太子は高倉天皇となり、清盛の息女・徳子を
    娶られて、外戚となり権威を維持していく。
    後年、生まれた皇子は安徳天皇となる。

  
     清盛の専横に不快感を持ち始めた後白河法皇は平家打倒の謀議を
   京・鹿ケ谷で企てたが、多田源氏・多田行綱の密告で露見。未遂に…
   法皇は断罪を逃れるが、謀議に加担した面々は粛清された。
   こうして益々平家不信は広まって行き、貴族だけでなく武士からも不満の
   声が出てきた。
   こうした声に耳を傾けない清盛は福原遷都を強行。しかし政治機能もまま
   ならず、木曽では源義仲、関東では源頼朝が挙兵しており、打倒平家の
   機運は高まる。
   清盛は嫡孫の維盛に源氏追討軍の総大将に任命し、現状の打開を図るが
   貴族化した平家軍は富士川の戦いで逃避敗退、倶利伽羅峠では壊滅的な
   打撃をうけて劣勢に…
   そんな渦中に清盛は高熱にかかり逝去した。(66歳)


平家盛…忠盛の次男。母は池禅尼。
      若くして官位も与えられており、兄・清盛に次ぐ勢力あったが、病没する。
      彼の容姿が頼朝に似ていることから池禅尼は頼朝助命嘆願したらしい。


平頼盛…忠盛の5男。母は池禅尼。
      頼朝の旗揚げ後、頼朝助命嘆願に力を注いだ過去もあり、一族の中から
      白い目で見られがちとなる。
      平家西国落ちには参加せず、平家滅亡後も所領安堵されて生き残る。

平忠度…忠盛6男。母は藤原為忠の娘。
      公家化した平家公達の中でも武勇を誇るが、一の谷の戦いで戦死する。
      (41歳)
      (ドラマに出るかは不明。でも、平家物語では欠かせない存在)

平重盛…清盛の長男。母は高階基章の娘。 
      同母弟に次男基盛がいる。(24歳で病没)
      性格は冷静沈着だが、文武両道の理想的な武者であった。
      清盛のサポート役として若くから戦陣に参加しており、保元の乱では従五位
      下を賜り、平治の乱では源氏の精鋭部隊とも互角に戦うが、悪源太義平に
      追い詰められて退避する。


      平家が実権を掌握してからは中核的な存在感を示し、内大臣にまで昇進。
      六波羅小松に屋形があったので小松殿とよばれた。
      反平家方の貴族とも互角に肩を並べるために、子息・資盛の牛車と摂政
      藤原基房の牛車が争い事を起こした時、資盛方が屈辱を受けたのに対し
      強烈な仕返しを行なったりもした。

     
      鹿ケ谷の謀議の折には、後白河上皇も幽閉しようとした清盛を「忠ならんと
      欲すれば孝ならず、孝ならんとすれば欲すれば忠ならず」諫言したのは有名。


      平家の屋台骨的で勢力的な活躍をしていた重盛だが、熊野詣の後に病に。
      出家して法名を浄蓮名乗るが間もなく逝去した。(41歳)


平宗盛…清盛3男。母は平時子(二位尼)。
      幼少の頃より文武に優れた二人の兄(重盛・基盛)と比較されると地味な存在。
      しかし、基盛・重盛・清盛と順番に亡くなったので平家棟梁となった。


      政治的にも卓抜した手腕はなく、武勇では弟の知盛や重衡にも劣る。
      一の谷の戦い後は讃岐・屋島に本陣を構えて軍を立て直し、知盛は壇ノ浦で
      兵力を整えて勢力を盛り返すが、義経に屋島襲撃されて敗退。
      壇ノ浦まで退却した宗盛は知盛と合流して再度勢力を整える。
      しかし、熊野水軍などで増強した義経軍と九州からは範頼軍に攻撃され、
      一時的には戦局有利に進めたが、潮の流れで逆転し壊滅した。


     一族が覚悟を決めて入水していく中、宗盛は潔くできず見かねた部下に落とされ
     るが、義経軍に救われた。
     その後は鎌倉に護送され、義経は腰越にとどめられたが宗盛は鎌倉で頼朝と
     対面。あまりにも助命懇願する宗盛に嫌悪感を示した頼朝は鎌倉から追放した。
     その後は義経と同行するが、途中近江国あたりで子息・清宗と斬首された。
     (38歳)

     (あまりにも武人らしくないので清盛の女児と交換された傘職人の息子ともいわれ
     ている)


平知盛…清盛4男。母は平時子(二位尼)。
      重盛亡き後は平家軍事全権の長となり、弟・重衡と共に兄・宗盛を補佐。
      雅やかな公達と化した平家の中でも武勇を尊び、宇治川の戦いでは源頼政を
      破り、近江・墨俣川の戦いでは源行家軍を敗退させた。


      父・清盛が甥の維盛を総大将にして関東・木曽と大軍を繰り出す中、知盛は
      西国平氏の取りまとめと京の守護兵の指揮にあたった。
      だが、関東・木曽で敗退してきた平家軍を立て直す間も無く、京に進撃してきた
      義仲軍を撃退できず、宗盛の西国落ちに従う。
      播磨で体制を立て直してから義仲軍と水島で戦い、これを撃退した。
      しかし、後に攻めてきた範頼・義経の鎌倉軍には奇襲されて敗退。
      壇ノ浦では甥・教経と水軍を率いて戦うが劣勢に…
      これまでと悟った知盛は碇を二つ身体に巻きつけて入水した。(33歳)

     (この入水シーンが歌舞伎・義経千本桜のクライマックスになる)


平重衡…清盛5男。母は平時子(二位尼)。
      一つ上の兄・知盛と軍の中核的な存在となる。
      1180年には反平家を唱えた南都・東大寺・興福寺を襲撃して焼き討ちした。
      また、墨俣川の戦いでは源行家軍を撃退し、従三位に任じられた。
      備中国・水島の戦いでは京から進撃してきた源義仲軍と対立し撃破した。
      だが、一の谷の戦いで捕虜となり護送され、焼き討ちされた南都の僧兵らに
      処罰された。(28歳)     
      

平敦盛…清盛の弟・経盛の3男。 無官大府。
      横笛の名手で名高く、一の谷の戦いで坂東武者・熊谷直実と一騎討ちして
      討たれる。(16歳)
      討ち果たした後、直実はあまりにも幼く、美しい少年公達を討った事に後悔し
      出家したとも言われている。

      (この部分は歌舞伎で持ち上げられているが、真偽定かではない。だが、
       ドラマに出て欲しい部分でもある)


平教経…清盛の弟・教盛の次男。 能登守。
      知盛に従い、四国・中国・九州地方の平家方軍事力をまとめあげる。
      平家の中でも一番の猛将とよばれ、屋島の戦いと壇ノ浦では義経を苦しめた。
      特に壇ノ浦では義経が八艘の船を飛び越えてまで逃げるような追い込みを
      行なうが、逃げられた後は源氏の武者2人を両脇に抱えて道連れ入水した。
      (25歳)

      (ドラマにはまだ出てこないが、絶対に出てきて欲しい武将である)


平維盛…重盛の長男。
      容貌はかなり美しく、桜梅少将と通称されるようになる。
      1180年に富士川の戦いで甲斐源氏の奇襲で水鳥が一斉に飛び立つ羽音で
      戦わずして逃げ帰り、祖父・清盛の逆鱗にふれた。
      1181年は墨俣川の戦いで源行家軍を撃退して小松中将となるが、83年には
      倶利伽羅峠の戦いで大敗し、平家都落ちの原因を作ってしまう。
      84年、西国落ちの平家方から密かに抜け出して熊野・那智にて入水する。
      (27歳)
      
      彼の長男・六代は平家滅亡後に捕らわれる。
      文覚上人に助命されて彼に師事し後に出家し妙覚と名乗る。しかし、源氏全盛
      の中に平家正統の嫡流が生存する事は危険視され、後年鎌倉に護送されて
      処刑されてしまう悲劇の人物となる。


平資盛…重盛の次男。
      特に功績は見当たらないが、建礼門院に仕える右京大夫との恋物語は有名。
      恋人を京の都に残し、壇ノ浦にて入水。(24歳)


平清宗…宗盛の長男。
      後白河法皇の寵愛をうけてなんと3歳で元服。
      壇ノ浦では義経軍に捕らわれ、父と共に鎌倉に護送された後、近江国にて
      斬首された。(15歳)


平時忠…清盛の妻・時子の弟。大納言。
      清盛とは別系統の平氏にあたり公家の色が強い。
      『平家にあらずんば人にあらず』と広言したことで人々の反発を買う。
      壇ノ浦まで随行するが捕虜となり、自分の息女を義経の側室にと工作したり
      して身の保全を図ったりするが、能登国に流罪されて生涯を閉じる。
      この出来事が後年の義経の悲劇に繋がることになる。


平時子…清盛の後妻。1171年には従二位に任じられ二位尼とよばれる。
      清盛の亡き後は安徳天皇の守り役として、平家一門の精神的な支えとして
      一族を率いて行くが、壇ノ浦では安徳天皇に『海の下にも都がございます』と
      なだめて一緒に入水した。(59歳)


平徳子…清盛の次女。
      高倉天皇のもとに入内し、安徳天皇の母となる。
      壇ノ浦にて入水するが、救助されて京にて出家し大原寂光院にて安徳天皇
      をはじめとした平家一門の菩提を弔う人生を送った。(59歳)

      *全国各地に水天宮があるのは安徳天皇を奉っている。
author : とらすけ | 14:48 | comments(1) | trackbacks(0) |

▼ 源義経 人物(源氏一族編)
[ 日本史 ]
NHK大河ドラマの義経、視聴率は低迷気味だけど

ストーリー展開・重要人物に大ベテラン俳優を配置

しているので、中々楽しく見られる♪

ここ数年間のがあまりにも酷過ぎたからなぁ…

で、ドラマが進むたびに人物関係が???

特に同じ源姓を名乗る人物が多くなるたびに混乱

しているという方々に簡略系図を書いたよ。

多少いびつで見づらい部分もあるけど…御愛嬌(笑)

あとは出演した人物について簡略説明を…。

(独学のため、誤りもあるけど…許したもれ)



1.源頼政  源氏でも義経とは別の系流・摂津源氏の棟梁。
       祖先には鬼退治で有名な源頼光。
       本来なら摂津源氏が源氏嫡流にあたるのだが、
       河内源氏の頼信・頼義が頭角を出した為、
       庶流にみられてしまう。
       平治の乱の折、河内源氏の源義朝を裏切り
       平清盛に味方した。
      (一説には義朝の懇願で源氏を残すための謀事とも)

       乱の後は三位まで昇進して源三位とよばれた。
       しかし、平家の専横に我慢できなくなり、ドラマ
       にもあった嫡男仲綱の愛馬の件で平家を見限る。
       後白河法王の皇子・以仁王の令旨を得て諸国源氏
       の決起をうながし、その旗頭として先陣を切るが
       宇治にて敗死した。

2.源仲綱  頼政の嫡男。伊豆守。弟の兼綱は検非違使。
       彼の嫡子・有綱は後年義経に従う。

3.源義朝  頼朝・範頼・義経の父。
       年少の頃より京から関東で過ごしたので武勇優れる。
       関東で頭角を出し、父・為義と対立するようになり
       為義の命で関東に進出した弟・義賢と勢力争いに。
       京にて任官したため、関東不在時に更に勢力を伸ばし
       てきた義賢を長子・義平に命じて関東豪族で討ち取る。
       保元の乱で険悪だった父と弟たちと対立。勝利を収めた
       が、平家に甘く源氏に過酷な仕打ちをうけ、義朝は
       父・為義と弟たち(頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲)を
       斬首させられた。後には頑是無い弟幼児4人も斬る。
       平治の乱では清盛と対立して敗退。落ち延びて再起を
       図ろうとするが尾張にて家臣の裏切りで落命する。

       この部分がネックになり、義朝の嫡男頼朝は義賢遺児の
       義仲や叔父行家・もう一人の叔父志田義広と対立する。

4.源義仲  父・義賢が関東進出の時に生まれたが、従兄弟の義平に
       攻めこまれたので、家臣の斎藤実盛の計らいで木曽に
       落ち延びてこの地にて育まれた。愛妾の巴御前とも木曽
       にて知り合う。

       叔父・行家によって以仁王の令旨を得て平家側と戦う。
       北陸平定後は関東の頼朝とは別行動で京を目指す。
       特に倶利伽羅峠での火牛の計で平家軍を追い落とすのは
       有名。(ドラマにもでるかな?)

       後に京に上るが、都振りの生活に馴染まず、軍の粗暴で
       治安悪化を招き人気もおちていく。
       岡山の水島で勢いを盛り返した平家に敗退後は徐々に
       勢力を失い、後白河法皇を幽閉して征夷大将軍の称号を
       強引に得るが、頼朝の命を受けた源義経と宇治で戦い、
       近江の粟津で敗死。

       義仲の嫡男・義高は鎌倉で頼朝の長女・大姫との婚約と
       いう形で人質になっていたので、命が危ういと知った
       大姫が彼を逃すが、途中で追っ手に殺害される。
       これを機に大姫は心を病んでしまい若くして亡くなる。
       (大姫は頼朝嫡男・頼家の姉)

       武田信玄の時代に出てくる木曽氏は義仲の3男の血筋。

4.源行家  為義の10男で当初は義盛とも名乗っていた。
       母親が熊野別当の娘なので新宮十郎とよばれる。
       以仁王の令旨を全国の源氏に伝え歩いた功績は大きいが
       彼の節操ない行動が後の源氏一族の対立に繋がる。

       まず独自行軍で甥・源義円(義経の兄・乙若)と平家軍と
       墨俣川で交戦するが、敗退。
       この時に義円は取り残されて敗死。

       次に甥・義仲の下につき京都進撃に加わる。
       (この時も行家の率いる部隊は苦戦している)
       しかし、京では叔父風を吹かす行家に愛想尽きた義仲と
       不和になる。

       義仲と離れた行家は平重衡の軍と奈良付近で衝突し敗退。
       暫くしてからは、兄・頼朝と不和になった義経と行動を
       共にして後白河法皇から頼朝追討の院宣を賜るが、頼朝の
       逆鱗を恐れた法皇からも見放されてしまう。

       西国に落ちようとした義経と行家だが、嵐で船が難破。
       義経とはぐれた行家は和泉国山中に潜んでいるところを
       頼朝の命を受けた北条軍に捕らわれ斬首された。



     義経の兄弟についてはこちら参照。





源経基−満仲−−頼光−頼国−頼綱−仲政−頼政−仲綱
          |                     |
          |                     −兼綱
          −頼親
          |
          −頼信−頼義−義家−義宗
                   |   |
                   |   −義親−為義−義朝−義平
                   |   |        |   |
                   |   |        |   −朝長
                   |   |        |   |
                   |   |        |    −頼朝−頼家
                   |   |        |   |  |   
                   |   |        |   |   −実朝
                   |   |        |   |   
                   |   |        |   −義門
                   |   |        |   |  
                   |   |        |   −希義
                   |   |        |   |
                   |   |        |   −範頼(蒲冠者)
                   |   |        |   |
                   |   |        |   −全成(今若)
                   |   |        |   |
                   |   |        |   −義円(乙若)
                   |   |        |   |
                   |   |        |   −義経(牛若)
                   |   |        |  
                   |   |        −義賢−仲家−仲光
                   |   |        |   |
                   |   |         |    −義仲−義高
                   |   |        −義憲(志田義広)
                   |   |        |
                   |   |        −頼賢
                   |   |        |
                   |   |        −頼仲
                   |   |        |
                   |   |        −為宗
                   |   |        |
                   |   |        −為成
                   |   |        |
                   |   |        −為朝(鎮西八郎)
                   |   |        |
                   |   |        −為仲
                   |   |        |
                   |   |        −行家(新宮十郎)
                   |   |        |
                   |   |        −幼少男子4人
                   |   |       (乙若・亀若・鶴若・天王)
                   |   |
                   |   −義国−義重(新田氏祖)    
                   |        |
                   |         −義康(足利氏祖)
                   −義綱
                   |
                   |
                   −義光−義業(佐竹氏祖)
                        |
                        −義清(武田氏祖)
                        | 
                        −盛義(平賀氏祖)        

author : とらすけ | 20:16 | comments(0) | trackbacks(0) |

▼ 源義経と兄たち
[ 日本史 ]
大河ドラマで話題の義経の兄弟を調べてみた。
父親の源義朝は若くして子供に恵まれていたんだな…


   系図はこちら 


長男 源義平 1141-1160 母親は三浦義明の娘
(鎌倉源太義平)
幼少より坂東で育ち、武者としても逞しく通り名も『悪源太』。
悪いという意味でなく、強い源氏の子という意味。
その名前の通り、14歳で父・義朝の命じられて叔父の義賢を討ち取る。
この時の武勇は都にも知れ渡り、平治の乱には義朝に呼び出されて平家
一門と戦った。なかでも、平重盛との一騎討ちは重盛を怯えさせ退けた。
平治の乱敗退後、一度は北陸を出て危機を脱したが父が暗殺されたり
弟・頼朝が捕らわれたのを知ると、清盛暗殺を計画して京都に潜入。
しかし、潜入先の店で店子として機会を覗っていたが、店の主人より
上座に座っていた店子の存在が怪しいと密告されて平家の追討にあう。
奮戦したが、痩せた体では太刀打ち廻りできず自ら捕らわれて清盛と
対面して相打ちを目論んだが、清盛は対面せずに斬首を命じた。
六条河原で討たれる時に『仰向けに倒れて平家を呪ってやる』と言い、
本当に仰向けに倒れて討たれた。
(首打たれて仰向けになるのはムリに近い)
その後、暫く都では奇怪な出来事が続いたり、義平の刑罰に関わった
人物が怪死したりして、悪源太の呪いだと都雀を脅かさせた。


次男 源朝長 1143-1160 母親は波多野氏

幼少の記録は少なく、武将の子供というよりおとなしい性格だった。
平治の乱で敗退の折に足を負傷したため、敵に捕らわれて命絶たれる
より、父に討たれたいと願い出て義朝に斬られた。


三男 源頼朝 1147-1199 母親は熱田神宮大宮司・藤原季範の娘。

家柄では兄弟の中で一番高かったので、父親は頼朝を幼少の頃から
嫡男として扱っていたそうだ。その事を知らされる事実としても
源家の家宝である源太産着(鎧)と鬚切の太刀(脇差)を授かった。
平治の乱が初陣となり、敗退の途中に父親一行とはぐれて平家に捕らわ
れた。源氏の嫡男という立場から清盛は斬首を命じたが、継母の池禅尼
らに助命嘆願をされて伊豆流刑に決まった。
池禅尼の亡くした子供と容姿が似ており、亡くなった年頃も頼朝と似た
年齢だったようだ。

伊豆流刑後はひたすら一族の供養の為に読経三昧の日々を送り、監視の
北条時政たちも平家反逆は無いものと安心させる。しかし頼朝の周囲には
源氏ゆかりの家臣たちも集まってきており、頼朝自身も情勢は把握していた。
最初の子供は伊東氏の娘との間に男子が生まれていたが、2歳の時に京都
から帰ってきた伊東祐親に知られてしまい、平家の目を恐れた伊東祐親に
よって海に捨てられてしまった。
その後は北条政子と知り合い、やはり平家の監視役という立場の時政として
は快く思わないので、伊豆判官の山木氏に嫁がせる事にした。それを知った
頼朝は山木判官を奇襲して政子を取り返し、北条時政も腹をくくって頼朝に
加担していった。

以仁王の令旨を受けた後に頼朝は挙兵。石橋山の合戦では大庭景親と
対戦したが、多勢に無勢で敗退。追討していた梶原景時に見逃されて危機を
脱した。その後は三浦水道を渡って房総半島に上陸。ここから軍隊の召集を
していき、体制を整えて鎌倉入りを果たす。鎌倉に拠点を構えた後は坂東
制圧に着手していき、従わない氏族や叔父・志田義広も追討していった。
関東平定後は大軍を率いて頼朝追討に来た平維盛と富士川で対陣。
平家の背後を衝こうとした甲斐源氏・武田氏の部隊が川を渡ろうとした時に
水鳥が一斉に飛び出し、すごい羽音が両方の陣に聞こえ響いた。両陣とも
敵の奇襲と察し、軍規整った源氏は戦闘体制につくが、軍規乱れた平家側は
武具を捨てて一気に三河付近まで逃げてしまった。この合戦の帰途に黄瀬川
で奥州から駆け付けた弟・義経と対面。後三年の役で兄・義家の応援に駆け
付けた弟・義光の故事と照らし合わせて喜んだという。

範頼・義経という一族の大将を得た頼朝は以後鎌倉にて着々と武家政治体制
を固めていく。木曽義仲を討ち取り、源氏の主体を完全に頼朝の手中に収める。
武士は武家の制度で固めていくという頼朝の姿勢により、恩賞も朝廷からでは
なく頼朝を通じて行なう体制にしようとしたが、これを良く思わない後白河法王の
策略も加わって断りもなく朝廷から検非違使を任じられた弟・義経に怒りを覚える。
その後は武士の統一の為には頼朝の弟でも断じて許さないという態度を示すために、
義経追討を決めた。上京して後白河法王から義経追討の院宣を受けると今度は
追討の為にと、全国各地に守護・地頭を配置して鎌倉政権が全国に行き届く体制を
作り上げた。武士・頼朝の台頭を防ぎたかった為に、義経を立てた後白河法王と
しては逆に頼朝の幕府体制をアシストするという結果となった。

義経を奥州藤原氏によって討たせた後、今度は義経を匿ったという理由で奥州
藤原氏を追討し、三すくみ体制を打破に成功。後白河法王死後には征夷大将軍と
なり、鎌倉幕府体制を作り上げた。
1199年に相模川架橋式典の帰途に橋上で落馬し、それが原因で重態となって
死去した。

一族を尽く血で血を洗う粛清したことにより、彼の子孫もほとんどが非業の死を
遂げて行く…


四男 源義門 生没年不詳 母親不詳(頼朝と同母説もある)

早世したらしく、何も記録がない。


五男 源希義 1152-1182 母親は頼朝と同じ。
(土佐冠者希義)
駿河国沼津付近にて育てられていたが、平治の乱の時に平家に捕らわれて
土佐国介良荘に流刑となった。その地で成人したので『土佐冠者』と呼ばれ
以仁王の令旨による平家追討の気運に乗じて希義も四国で挙兵を企てるが、
平家側に事前察知されてしまい、追討命令を受けた蓮池家綱・平田俊遠に
急襲されて自刃した。
一部では頼朝による暗殺説もあるが、頼朝はこの弟の死を悲しんでおり、
希義の遺児・希望を取り立て土佐国介良荘を与えた。彼の子孫は土佐の
吉良氏となり戦国時代にも名が出てくる。


六男 源範頼 1156-1193 母親は遠州浜松の遊女
(蒲冠者範頼)
生まれた遠州で育ち、頼朝挙兵の折に兄・頼朝の幕下に付くが時期は不詳。
関東平定の時に鎌倉軍大将格になる。その後は木曽義仲追討の時には弟
義経と共に征伐軍大将として軍功を認められた。
平家西国追討戦では戦線拡大しすぎて平家に糧道を断絶されて苦戦を強いられ
鎌倉の兄に度々窮状を綴った書状を送った。弟の窮状を助けるために謹慎を
命じていた義経を援軍の総大将として西国に送り出した。その結果範頼は
兵糧と船団を調達して豊後に渡り、九州の平家拠点を叩く事に成功し、
壇ノ浦の戦いでの勝利の足固めになった。
平家追討後、義経の征伐を決めた頼朝に義経追討命令を受けたが、義経の
武勇と戦略を知り尽くした範頼はこれを固辞。これを機に頼朝との間に
溝が出来始める。曽我兄弟討ち入り事件の時に頼朝暗殺説が鎌倉に流れ、
この件を聞いた範頼が北条政子に『兄亡き後はそれがしがおります』という
ような発言をしたため、頼朝の怒りを買ってしまい伊豆の修善寺に幽閉された。
その後、頼朝の討手が差し向けられたため範頼は自刃した。

後日、相模川の橋で頼朝が落馬してその後に亡くなった事件があるのだが、
その落馬の原因は範頼家臣の怨みによる頼朝暗殺説ともあるらしい。


七男 阿野全成 1153-1203 母親は常盤御前
(醍醐禅師)
平治の乱の後に平家方に捕らわれて京都醍醐寺で出家させられた。頼朝の
挙兵を知ると、寺を抜け出して頼朝幕下に駆け付けた。
頼朝幕下でも着々と地位を固めており、妻は北条政子の妹で頼朝の嫡男・
頼家の乳母も勤めた。
頼朝死後は将軍になった頼家と対立する立場となり、後に頼家によって常陸へ
追放されて殺害された。

全成の娘は藤原家に嫁いでおり、その子孫は阿野廉子で後醍醐天皇との間に
授かった皇子は即位後、後村上天皇となった。


八男 源義円 1155-1181 母親は常盤御前

平治の乱後に捕らわれて京都園城寺にて出家させられた。頼朝挙兵の時に
参加し、叔父・行家の軍に加わるが墨俣川の合戦で平重衡の軍と対戦したが、
行家の不甲斐ない指揮の下で軍隊は敗退。孤立した義円はその時に戦死した。


九男 源義経 1159-1189 母親は常盤御前

河内源氏棟梁・源義朝の9男。
幼名・牛若。稚児時代は遮那王。
平治の乱の折りにはまだ乳児だったため7歳まで母・常盤御前の
もとで育てられる。


その後は鞍馬寺に預けられ稚児生活を過ごした。
この時に父の遺臣達が密かに訪れて世の中の形成や義経の
生い立ちを教え、武道を享受して平家打倒の道筋をたてたとも言わ
れている。
この時の過ごし方が鞍馬天狗と武者稽古などと伝説化された。


16歳あたりの時に父の遺臣達の手引きにより奥州藤原氏の家臣
金売り吉次と共に平泉に向かった。
旅の途中、熱田神宮にて元服し、九郎義経と名乗る。
義は父親・義朝から、経は源氏の祖・経基王から引き継いだ。
(4男が早世しているので本来は8男だが、叔父に鎮西八郎為朝が
いるので、遠慮したという説もある。)


奥州平泉では鎮守府将軍・藤原秀衡の庇護を受けて成長していき、
この地で妻を娶って女児に恵まれたという説もある。


治承4年(1180)、異母兄・頼朝の旗揚げに参ずるために平泉より
出陣。この時に佐藤継信・忠信兄弟が家臣に加わった。
富士川の合戦には間に合わず、鎌倉に帰還する頼朝軍とは黄瀬川
で合流。
この時に頼朝は後三年の役の故事を語って涙を流しながら義経を
迎えた。
(後三年の役、出羽清原一族の抵抗に苦戦する源義家の援軍として
弟の義光が都での官位を投げ捨てて駆け付けたという故事)


暫くは鎌倉に滞在して屋形を構えて落ち付くが、兄・頼朝の態度が
弟をも家臣と同列に扱うのが義経主従に暗い影をおとす。
八幡宮落成のおりには、宮大工の棟梁に授ける馬の轡引く役目を
義経に命じた。
頼朝としては軍隊自体も豪族の寄り合いなので、一族を優遇する
わけにもいかない。それで弟でも家臣同様というデモンストレーションを
敢行しただけにすぎない。
そして、坂東武者との繋がりを深めるために河越重頼の娘を嫁に
とらせた。


1181年、異母兄・範頼の副将として木曽義仲討伐軍で鎌倉出陣。
宇治川で対陣し、滋賀県粟津付近で義仲を討ち取った。
1183年に京に入り、水軍で増強してきた平家軍と播磨国で対立。
大手軍に範頼、搦め手軍に義経率いる精鋭軍で一の谷を奇襲し、
平家軍を海に追いやった。
この時の戦い方が鵯越の戦い。急斜面の崖から背後の平家軍に
奇襲を仕掛ける方法。
鹿が降りれる崖ならば同じ4本足の馬でも降りられるはずだという
物語はここから出ている。


その後、京に凱旋した時に後白河法皇より従五位下検非違使に任官。
この頃から九郎判官と呼ばれる。
これが頼朝の許可無しに任官したため怒りを買ってしまう。
(頼朝としては武士は武家の指揮下に収めたいので任官は頼朝を
通じるようにと、事前に下知してあった)


1184年、西国で苦戦している範頼軍を救援するために再び
軍隊の指揮を許可されて京より出陣。
この時に四国に渡るために渡辺党の水軍を手配する。だが、船の
櫓の付け方で軍監の梶原景時と対立してしまい、景時は義経の行動を
批判的に鎌倉に送付してしまう。
(一の谷の戦い方でも両者は対立している。)


四国上陸後は平家方の豪族を蹴散らして、勢力を源氏方に塗り替え、
屋島の戦いでは平知盛・重衡ら主力軍のいない平家軍は壊滅。
平家方に海上の船の扇にまで坂東武者の弓は届くまいと挑発されて
那須与一に弓を放たせて見事に射抜いたのはここでの話。
この時の戦いで奥州からの家臣だった佐藤継信が平教経の矢から
義経を守るために身を挺して戦死した。
壇ノ浦に平家追い詰め、範頼軍と合流して水軍を増強して潮の流れを
利用して平家一族を滅亡させた。(1185年)
義経八艘飛びは、ここでの戦いで平教経との戦いで船を飛び越えて戦う
という話。


京に戦勝凱旋し、鎌倉に平家の棟梁・平宗盛親子を鎌倉に護送するが
頼朝はこれを拒否し、腰越から先に入れさせなかった。
これには軍監・梶原景時より、京で平時忠の娘と婚約した事、安徳天皇
の母・建礼門院徳子を助けた後に庇護した事、平宗盛親子を囚人扱い
せず貴人扱いで護送した事などが報告されていた。
それとは別に、坂東武者達が戦術巧みな義経の魅力に惹かれつつある
点も武家政治を始める頼朝には不都合だった。


腰越で自らの心情をしたためた腰越状も側近・大江広元によって握られ
頼朝の目には触れられなかった。


その後失意のうちに京に向かい、途中近江国付近で平宗盛父子を斬首。
京では堀川屋敷に滞在し静御前と過ごすが、鎌倉からの追っ手の襲撃に
遭うが、返り討ちにする。
鎌倉との対立は避けられないと判断した義経は、同じく頼朝の不興を
かっていた叔父・行家と後白河法皇に頼朝追討の院宣を乞う。
義経の武略と人気を読み、目の上の瘤となった頼朝を討つなら今、と判断
した法皇は院宣を与えた。
だが、武略に富んだ義経だが、政治力では頼朝に及ばない。
頼みとした坂東武者はだれも従わず、義経は逆境に陥った。


また、頼朝の逆鱗を恐れた法皇は頼朝から願い出された義経・行家追討の
院宣を与えた。この時に頼朝は義経を義行という名に変えさせている。
立場が危うくなった義経・行家は四国・西国に落ちようとしたが、船は嵐で
難破。一行は散り散りになった。
行家は紀州の山に隠棲していた所を北条軍に見つかり斬首。
義経主従は吉野山に身を潜めていたが、追っ手に見つかり追討される。
この時に、佐藤忠信が戦死、静御前が捕らわれた。


一度、京に潜伏した義経主従は北陸から奥州・藤原氏を頼りに逃避。
安宅関では守護職の富樫氏に見つかったが、武蔵坊の勧進帳で窮状を
訴えて、相手方の同情を得て窮地を脱し、無事平泉に到達した。


捕らわれた静御前は鎌倉に護送され、頼朝に八幡宮にて源氏戦勝を祝う
舞いを奉納するよう命じられたが、義経を慕う心情を訴える舞いだった。
当然頼朝は激怒したが、妻・政子に女性の心理を理解するよう宥められた。
この時に義経の子を身篭っていた静御前は鎌倉で男子を出産。しかし、
見る事なく由比ガ浜に遺棄されてしまった。
出産後、赦免された静御前は京に向かうがその後の消息は定かでない…


奥州滞在中にも何度か鎌倉から義経引き渡すよう通達があったが、秀衡は
これを突っぱね、逆に攻めこまれた時に備えて奥州17万騎といわれる
強大な兵力を義経を将軍とするように子息の泰衡・国衡・忠衡に指示する。
だが、間もなく秀衡が亡くなり、鎌倉からの圧力に耐えられなくなった泰衡は
義経追討を決意。500騎の兵力で10騎足らずの義経主従に襲撃をかけた。
この時の義経一行は河越頼重息女の妻と2人の娘、武蔵坊弁慶・常陸坊
海尊、伊勢三郎・鷲尾六郎…
衣川・高館の義経は妻子と共に屋形に火をかけて自刃した。(1189年)
author : とらすけ | 00:00 | comments(7) | trackbacks(0) |

▼ 義経トリビア
[ 日本史 ]
今回はドラマとは離れて実在の義経に関する史実を引っ張りだしてみた。

義経トリビア その
牛若のひとつ上の兄にあたる乙若の子孫は…

織田信長の美男子寵臣、愛智十阿弥にあたるそうだ!


義経トリビア その
さらに上の兄にあたる今若の子孫は…

太平記時代の後醍醐天皇の后、阿野廉子。
その間に生まれた男子は後村上天皇になった!


表に出てこない日本史の一幕に彼らの血筋が脈々と流れているのが
改めて思い知った。
author : とらすけ | 23:19 | comments(0) | trackbacks(0) |

▼ 忠臣蔵
[ 日本史 ]
今年はやたらドラマで忠臣蔵が目立っていたなぁ。
吉良上野介による度重なるいびりによって我慢に我慢を重ねてきた
浅野長矩が遂にキレて江戸城松の廊下で刃傷に及んでしまい、片手
落ちの裁きもあるが赤穂15万石がお取り潰し。

で、藩主の遺志を遂げようと筆頭家老大石内蔵助率いる47士が
艱難辛苦を乗り越えて本懐を遂げる。
そして後世まで伝わる数々の武勇伝。

しかし、討ち入られた吉良側にしても迷惑千万な出来事なのでは?
寝こんだ時間にいきなり押しこみ、斬られるんだから。
斬られた吉良方の武士達にもそれぞれの生活があったんだし、
それを浪士達に壊されたからね…。

ドラマでは出てこない部分だが、吉良の殿様は民のために善政を
布いていたらしい。
だから今でも命日には供養が地元ではしっかり行なわれているね。

現代ではどちらが正しいとは絶対評価出来ない事件。
author : とらすけ | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) |

▼ 文化の力
[ 日本史 ]
日経WEBの記事に『岩手県平泉市誕生へ…』とあった。

平泉といえは中尊寺。
  中尊寺といえば金色堂。
    金色堂といえば奥州藤原氏。


今、スカパーで『炎立つ』が放映されているので興味ある記事だった。

昔、NHKの『炎立つ』で藤原4代(経清入れると5代)に興味持ち、
現地まで観光がてら史跡巡りもしたくらい。

ドラマでは泰衡を美化しすぎているような気もするけど、ドラマの中に
ある泰衡の台詞で『文化の力で戦に勝つ。この平泉を戦場にしない
ような文化の力を鎌倉武士(源氏)に見せる。』
結末は、泰衡は自らの家臣に討たれて奥州藤原氏は滅亡の道に・・・。
しかし頼朝は平泉の文化の力に敬服し、幕府直轄領地として保護して
いくことに。

たしかに、実際に平泉の金色堂や経文・彫り物などを見ると畏れ入る。
見事すぎてため息が出るほど。

この市制を機会にもっと平泉の歴史文化が広く世に伝わる事を願う。
author : とらすけ | 22:03 | comments(2) | trackbacks(0) |





 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< May 2017 >>